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教諭
平成9年4月1日 心誉康隆
われらが教祖釈尊は煩悩の根本を無明と説かれました。無明とは縁起の法に明らかでないこと、即ちこの生命が様々な因縁(原因と条件)の積み重なりの総和の力でささえられ、この時間と空間の交わりの中で、始めて存立し得て生かされて生き得ていることへの開眼を説かれたのです。私たちニュートンの万有引力の話を小学生の頃教えられていますが、そのお陰で生き得ているなど思ってもみません。しかし先年無重力の宇宙から戻られた向井千秋さんの帰還第一声は一枚の紙の重かったこと、私たちがこの地上で寝たり起きたり飛んだり跳ねたり自由自在に暮らせるのも全く目に見えぬ 地球の引力重力のお陰で、何とも有り難いことだと話しておられました。この事実こそ釈尊が悟られた縁起の法に目覚める謂なのです。その時釈尊は夜空に輝く星々の瞬き、わけても暁の明星の瞬きを仰いで思わず南無無量 寿仏(なむあみだぶつ)と唱えたと申します。正しく念仏の根源でありました。
われらが宗祖法然上人もまた悩みに悩み求めに求めて遂に善導の「故の文」(行住坐臥不問時節久近、念々不捨者是名正定之業。順彼仏願故)に啓発されてわれらが生命の大御親、阿弥陀仏の一切を救わんとの本願業力の大慈悲心に直面 され、その本願救済のみ心を月影の中に仰いで高声念仏されたのです。本邦初の本願念仏の第一声であり、全く釈尊の称名と軌を一にするものといえましょう。阿弥陀仏の無量 寿の一切を生かす力用(はたらき)、無量光の一切を生む力用(はたらき)(本願力仏本願業力)のお陰で,われわれはここに生かされて在り、その力を「生命の保全と拡充」という二大本能として与えられ、且つその一切の天地の恵みを生きる糧とし、生命の恵みとして享受し得て始めて存立し、生かされて生き得ていたのでありました。物理学者はこの天地の一切を動かす力を無限のエネルギーの力としますが、私たちはそれを阿弥陀仏の一切を救い給う本願力の力用(はたらき)とあおいでいるのです。
光明会祖山崎弁栄師は「夜な夜な仏とともに寐(い)ね朝な朝名なもともとに起き、立居起臥(たちいおきふし)添いまして、暫しも離るることぞなき」と詩われ、第二祖聖光上人は智度論により不離・値遇仏を念仏三昧の境地としておられますが、私は善導大師や宗祖の説により随順仏をそれに加えることにしています。鹿ケ谷の忍徴上人は「寐(い)ぬ れば仏を含み、覚(さ)むれば仏を吐く」と一息一息仏と共に生くることを説かれましたが、私はいつも「寐(い)ぬ れば仏のみ胸に、覚(さ)むれば仏のみ手に」と詠んでは、日々夜々仏の慈光裡に一息一息一足一足常に念仏を心の杖柱とし、命綱として、仏の慈光裡に生きたいと希っております。選択本願の念仏のこの念仏こそは正しく釈尊出世の本懐であり付属し給うところ、諸仏の証誠し給うところであります。私たちが生きる上の心の支え、命綱、光明土と導く力と仰ぎ、日々夜々力強く歩んでまいりましょうしよう。
至念至念合掌
平成9年4月1日
浄土門主 心誉康隆