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教諭

平成8年4月1日 心誉康隆

念仏の詩人榎本栄一老人は「私は手ぶらで、今朝も如来の家へ、あがりこみ、微風をいただき、日のひかりをいただき」と詩っています。実に私たちは如来の家の子だったのです。星々が輝き、日が照り、雨が降り、風が吹き、草木が茂る。それら一切が、実は一切を在らしめ生かす無限の大生命の仏、阿弥陀さまの一切を生かす無量 寿、一切を育む無量光の根本の願力による働きのお姿に外ならなかったのです。
人は誰しも、どこまでも生きたい、良くなりたいと願わぬはありません。この私たちの生命の保全と拡充という二大本能も、実にこのみ仏の無量 寿・無量光の本願力の賜物だったのです。私の内なる生命力こそ、一切衆生の有する仏性の本体だったのです。それがやがて如来蔵説となり重々無尽縁起の蓮華蔵世界観に発展したのです。そして浄土教の一蓮托生・倶会一処・共生極楽の信仰こそ、その究極の教えだったのです。
私たちは、自らの内に仏の願力を賜っている許りか、一切の私を生かす力として天地一切を頂いていたのです。先年、宇宙から戻られた向井千秋さんの帰還第一声は、一枚の紙の重いこと、私たちが地上で行住坐臥自由自在なのも目に見えぬ 地球の重力のお蔭だとのことでした。空気といい水といい、草木の緑といい、天地一切が実は仏の私たちを生かし育まんとの本願力による施設(しつらえ)であり手段(てだて)であったのです。私たちは実に仏の無限の恩寵の懐の中で始めて生き得ていたのです。釈尊がその原始経典(相応部)の中で、「甘露(即ち不死)の門は開かれた。耳ある者は聞け!」と宣い、「恰かも暗き部屋に灯し火を導き入れて、眼ある者は見よ」との如く説かれたことは、実にこの生命の真実相のことだったのです。
そして宗祖はこのみ仏の本願力を信仰されたのです。選択本願とは、正しくみ仏により生かされ育まれている恩寵の事実に目覚め、この迷い易く、踏みそこねて三悪道に陥り易い人生の歩みを、破滅の地獄への道へではなく、我らが生命の御親を慕い念仏を生命綱とし心の支え、杖柱としてみ手に縋り摂取の光明裡に親里皈り・往生浄土の道へとふり向けて生きぬ くべきことを訓されたものなのです。仏の本願力による恩寵の中でそのみ救いのお力によって生きるのが念仏信仰の姿といえましょう。
いまや「宗教の世紀」と待望される二十一世紀も間近かになりました。どうぞ縁あってこの浄土宗のみ教えを信じることの出来ることの喜び、この大いなる天地の恩寵の大慈悲の中にあってすべてを生かし育むみ仏の本願力を仰いで、その一切を救い給うみ心に副って全ての人と和合し合い、共生きし合う本願の乗合船の乗合人として、互いに手をとり睦み合って、明るく力強くこの人生を踏みしめて参りましょう。

南無阿弥陀仏

平成8年4月1日
浄土門主 心誉康隆

合掌和南