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教諭
平成28年1月1日 願譽唯眞
法然上人は、生死を出離する行を「あれも、これも」という複合的な修行(雑行)から脱し、「この一つ」を選び取って、念仏の一行を指し示された。それは阿弥陀仏の名号を称えるだけで、誰でもが極楽往生できるという専修念仏の教えであった。
弥陀の第十八願こそ、平等の慈悲心からおこされた万機普摂の本願であり、もし念仏ではなく、造像起塔、智恵高才、多聞多見、持戒持律などが往生行にかなっているのならば、貧窮困乏、愚痴、破戒の者たちは往生できなくなる。本願の念仏はこのような者をこそ往生さすために、弥陀の側で用意されているのだと説かれた。
当時、巷には貧賤、愚者、悪人が満ち溢れていた。富貴の者といえども安穏ではなく、むしろ富貴なるが故に不安に直面していた。弥陀の大悲は貴賤、貧富、賢愚、善悪などの別なく、念仏を称える者には等しく及んでいったのである。
人々が選び取ったこの一つとは、一向に弥陀の本願を信じて、専ら念仏の一行を修することであった。口称念仏の相続にあった。
ところで、念仏者が特に建久以降増加すると、余行、他教との間に疑団、摩擦などの問題が生じる場合がある。神祇信仰との関係を一例としよう。元久の頃、一部の念仏者が神明に背いて、権化実類を論ぜず、宗廟大社をも憚らず、もし神々を崇めたなら必ず魔界に落ちると唱えていたことが明らかである。また法然上人の津戸三郎為守への返書に、彼が現世利益のために神仏へ祈禱することの是否を伺ったことがわかる箇所がある。上人の回答は、「現世のことで仏神に祈ることは許されるが、後世の往生のためにといって、念仏以外の行をあれこれすることは念仏の妨げになるからよろしくない。この世のためにすることは、往生を目的とする祈りでないので、仏神への祈禱は少しもかまわない」というものであった。
法然上人にとっては、後世の往生は念仏以外には無い。この世のためにする仏神への祈りは往生になんの価値もないものであった。この世の祈りを認められているのは、武士や農民などにとって神社祭祀が必要であることを知っておられたからである。「この世のためにすることは、往生のためにではない故」という前提づきで神祇崇拝を否定されなかったのである。
また北条政子への消息では法然上人は、専修を妨げない範囲での雑善根を認め、仏神祈禱、写経、造堂なども後世を願ってのものであるべき事を諭し、また「ただ念仏ばかりこそ、現当の祈禱とはなり候へ」と説示している。峻拒ではなく、事の本質を押えて柔軟な対応であった。
このように法然上人は晩年、「この世のためにする仏神への祈り」をあながち否定しなかったが、「後世の往生、念仏のほかにあらず」と、後世のためには専修念仏こそが絶対の往生行である、という基本的立場を貫いておられたのである。布教に当たって、これに類した話題も出よう。私どもは、法然上人のこのような姿勢をしっかりと押さえておくべきでありましょう。
合 掌
平成28年1月1日
浄土門主 願譽唯眞