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教諭

平成27年1月1日 願譽唯眞

人は死と向き合うことで生きる意味を見出し、今生きていることを改めて自覚し、より大切に生きようと心がけなければならないのに、現在の日本社会では死の実感が社会の様々な面で抜け落ち、死と向き合う経験が減少しています。
中世、民衆愛をもって人びとを労われた法然上人の許には、死の恐怖や苦しみを超克しようとした人々がやって来たり、また死の実相を見据えて往生の用心を尋ねて答書を待つ念仏行者らが居ました。「往生浄土用心」の第七答から上人の教示(抄略)を少し次に挙げてみます。
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臨終の時には無数の病苦が襲う。これらは人間の心が必ず受ける八苦のうちの死苦であり、本願を信じて往生を願う行者でも逃れられない。だが息が絶える時には阿弥陀仏の力により安らかな心で往生できる。臨終は髪の毛一筋を切るほどの瞬間だ。その時の心は外部の者にはわからず、ただ仏と念仏行者とが通じあうのみである。
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臨終には三種の愛心が起り、心が乱れるが、この愛心は阿弥陀仏の力によってのみ除いていただける。それ故、健康な時に念仏を称えて、臨終に阿弥陀仏の来迎をいただき、三種の愛心を取り去り、心乱れず安らかに極楽へ生まれようと思うがよい。
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人の死はかねて思っていたようになるものではない。大通り、用便中に死ぬこともあり、刃で命を落とす者もいる。そんなありさまで死んでも、日頃から念仏を称えて極楽に生まれたいと願う心さえある人は、息が絶えるその時に来迎があると信じられよ。
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最近、超高齢社会における生涯学習の在り方について、文部科学省の有識者会議が論議しています。「死」はデリケートな話題だからといって避け続けるわけにはいかないと考えられています。思うに、「死」を課題としてきたのは本来宗教者です。法然上人の考えは前述の通りです。これらの所説には、人の断末魔の苦相と、念仏、来迎、正念による救済構造、さらに平生の念仏の大事さが示されています。念仏者であっても死苦は受けねばならないが、平生の念仏の功徳により阿弥陀仏の力をいただいて正念往生するのだと説かれています。また別の説法では、今時の行者が平生の念仏を疎かにし、遥か先の臨終の時に正念になれるように祈っているのは間違いであり、「怯弱心こにゃくしんのない平生念仏」が肝要だと説かれています(『逆修説法』)。
ところで現代人の思想・信仰状況下では、教説が正しくても、受ける側には相違がある場合が見られます。例えば、所謂「お迎え話」では阿弥陀仏より概して近親者がお迎えに来る場合が多いようです。これは「教説」と「信仰の現場」との隔たりということになるでしょう。両者の「あいだ」「隔たり」を意味あるものにしなくてはなりません。このようなことが他にもあるでしょう。吾人は、この「あいだ」の意味づけについてよく考えておかねばならないのではないでしょうか。

合 掌

平成27年1月1日

浄土門主 願譽唯眞