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教諭

平成26年1月1日 願譽唯眞

法然上人が唱導された専修念仏は、革新的な仏教として登場しました。この世にあって転迷開悟しようとする聖道門諸宗の行法は、利智精進の行人にとっては末世でも無益ではありませんが、道俗、貴賤、賢愚、善悪、男女などの区別なく、万人にひとしく耐えられるものではありませんでした。すでに聖道門の諸宗は時代の苦悩を背負った民衆の救済とは無縁のものになっていました。
法然上人は民衆愛を持って、人々を救わなければならないとの使命感に燃えておられました。上人が選ばれたのは、『選択本願念仏集』の言葉を借りていえば、「機に当り、時を得(え)」「一たび開いて永く閉ぢざる」「念仏の一門」でした。教法の勝劣をあげつらうことなく、教門の適否を民衆に求めさせ、決断によって各自の内面で自らの信仰を転換ないし確立させようとされたのです。
法然上人は人びとに聖道門の廃捨と、浄土門の選取を迫られました。乱世の真っ只中にあって、人びとは生か死か、右か左か、どちらを選ぶか瀬戸際に立っていました。このような状態は現代でも同じです。上人の時代はまさに「決断の世紀」でしたが、われわれの生きる今もまた同様であります。
私たちが選んだのは「一向専修の念仏」「専修念仏の一門」です。法然上人の意によれば「一向」とは念仏以外の諸行を除く心をいい、余行を捨てることが「専」、口称の念仏のみを行なうのが「修」なのです。「一向」の当然の帰結として「専修」があるのですから、念仏の他に余行を加えると「一向」ではなくなります。
念仏以外の行を選び捨て、嫌い除く「一向」の態度には、浄土宗側の、価値ある法門を求めての思い切った新しい生き方と、あくまで宗教的信念を貫こうとされる、法然上人の強靭で純粋な姿勢がみられます。
既成教団からは、この「一向専修」の教えを「偏執の義」と批難されました。が、法然上人からすれば、「余の行をばえらびすて、きらひのぞく心」こそ、その宗教の特質を形づくるものでした。偏執というならば、法然上人こそ何人も邪魔だてできない真実の法門、「一向専修の但念仏」に固執されたのでした。このことからも上人が単に柔和円満だけでなく、強固な精神の持ち主であったことがわかります。
阿弥陀仏の本願を信じて「ただ一向に念仏」する人々同士で、道俗、貴賤、貧富、男女等の別を超えた新しい人間関係がつくられて浄土宗は拡がっていったのです。
〈念仏縁〉による親密な人間関係からなる新たな宗(集)団が形成されたと云えましょう。わたくしどもは、このことに思いを致し、今を生き、未来に繋ぐため、「ただ一向の念仏」縁を活かしましょう。

合 掌

平成26年1月1日

浄土門主 願譽唯眞