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教諭
令和7年4月1日 願譽唯眞
一、はじめに
義山上人は「広くすれば選択集、縮むれば一枚起請也」(『一枚起請弁述』)と述べられ、『一枚起請文』には法然上人のみ教えの真髄が説き尽くされています。浄土宗教師であれば『一枚起請文』は親しまれていると存じますが、成立の経緯や内容などを今一度原点に立ち返り習熟することが大切であります。
また、たとえ内容をよく理解なさっておられても、それが実践できていなければ『一枚起請文』を本当にわかったことにはならないでしょう。『一枚起請文』は何を実践すべしと説いているのか、以下でそれを改めて確認してゆきます。
令和七年度からの四年の間は、法然上人の御遺誓たる『一枚起請文』を布教教化の指針に据えていただきたいのであります。さらに『布教羅針盤』において、今後四年間にわたり順次示される『一枚起請文』の肝要なる教えを拠り所として、自行化他の実りをあげられることを期待します。
二、「ただ一向に念仏すべし」=「専修念仏」の実践
『一枚起請文』の中で最も有名で、最も重要な御詞は「ただ一向に念仏すべし」であるといえましょう。他の行をすることなく、ひたすらお念仏(称名念仏)だけを修してゆけということです。言い換えれば「専修念仏」すべしということにもなります。専修念仏とは一向に称名念仏だけを修してゆきなさいという教え、またそうすれば「百即百生」、即ち百人いれば百人とも往生できますよという教えです。「一向に」とは他の行をまじえないことです(『選択集』第四章)。
法然上人はまさにその専修念仏を忠実に実践されました。そのことは『隆寛律師伝説の詞』の「かつては日に三回、『阿弥陀経』を読誦していたが、その内容は結局念仏せよということなので、今は一回も読誦することなく、お念仏ばかりである」という一文や、法然上人が毎日少なくとも三万遍のお念仏をなさっておられたことなどから分かります。三万遍の念仏をすれば、他の行を修すことなど不可能です。
ところが、現代にあって、この専修念仏は法話やお説教であまり強調されることがなく、ほとんど実践もなされていないと言っていいのではないでしょうか。念仏を申しておられる方はそれなりにいらっしゃるとしても、それを専修なされている方はごく少数のように思われます。
現実問題としては「日常勤行式」に既に読経や礼讃が含まれますし、念仏だけでは法事もお葬式もできないということもあるでしょう。ですから、現代にあっては実際には法然上人のように完全な専修は難しいかもしれません。しかしながらできる限りそれに近づける努力はできるはずです。
念仏で往生が可能ということは既に法然上人以前にも説かれていたわけですので、そのようなことからしますと、法然上人の教えの特色はまさにこの念仏の「専修」にあります。専修であってこそ往生できるという教えです。よって法然上人の教えを受け継ぐ私たち浄土宗の者は、改めてこの専修念仏の教えを再確認し、自ら実践し、檀信徒にもできるだけ説いてゆくことが必要といえるのではないでしょうか。それが自身ならびに檀信徒の往生にもつながり、法然上人への報恩になるものと思われます。
三、三心・四修と申すことの候
往生のためには三心、即ち信心が必要です。三心の中の一心でも欠いたなら往生できないことは、法然上人の御詞においても繰り返し述べられているところです(『念仏大意』『大胡太郎実秀へつかはす御返事』など)。
ただ、この三心や四修も、『一枚起請文』で説かれるとおり、お念仏を続ける中で自然と具わってくるもの(この点が信心重視の浄土真宗と異なる点です)。ですからやはり先に申しましたように、お念仏を専修する、少なくとも続けてゆくことが大切といえます。
四、奥深きことを存ぜず、智者の振る舞いをせず
現代人はどうしても理屈が先に立ってしまいます。ややもすると、この念仏往生の教えを他の教えや思想と結びつけて理解したり、自分勝手に独自に解釈してしまうことがあります。でもそのようなことをすれば、(弥陀・釈迦の)二尊のあわれみに外れ、本願に漏れることになってしまうわけです。
この「奥深きこと」を含め、「智者の振る舞いをせず」ということは、専修念仏の実践をする際に非常に大切であるからこそ、「ただ一向に念仏」と仰るだけでなく、「愚鈍の身になして、智者の振る舞いをせず」と付け加えられたのだと考えられます。
では、なぜ智者の振る舞いをしてはいけないかというと、私たちは凡夫であるにもかかわらず、智者と思うことによって、「信機」(自身が凡夫であると認識すること)を欠くことになるからです。「信機」を欠けば、深信ひいては三心の一部を欠くことになります。また信機を欠けば、詳述できませんが、信法も願生心も、さらには至誠心も欠く可能性があります。
もちろん、多くの方は自身を智者などとは思っていないと仰ることでしょう。しかしながら、もし他人と意見が異なる場合、ついつい自身が間違っている可能性を考えることなく、自分が正しいと主張しがちです。またインターネットが進展して様々な知識を簡単に、しかも大量に獲得することができる現代にあっては、比較的容易に「智者」になることができる時代、逆に申しますと「愚鈍の身」であるという自覚が持ちにくい時代になっているようにも思えます。
しかしながら自身に多くの欠点や煩悩があるのは間違いありません。法然上人はそれをしっかりと見つめなさいと仰るわけです。そうすれば自身が愚者であることが理解できて、それによって自然とお念仏も申せ、三心も具わってくるとお考えになっていたようです。
法然上人は決して知識を得ることを否定はしておられません。ご自身、「智慧第一の法然房」であられたわけですので。しかしながら、たとえそうであっても、智者の振る舞いをせず、自身が愚鈍であることをしっかりと認識せよ、私たちは所詮、愚鈍の身であるからというわけです。
五、具体的な実践
このように、自身に具わる悪しき部分をしっかりと認識し、愚鈍の身になして念仏を専修してゆく、それが浄土宗の僧侶・檀信徒の理想像といえましょう。
では、具体的にはどのようにすればいいのか。まず「専修」については、本堂やお仏壇の前でのお念仏だけではなしに、道を歩きながらのお念仏、(安全に気をつけながらも)車を運転しながらのお念仏、湯船につかりながらのお念仏などが考えられます。お念仏を申せる状況にある時を利用してのお念仏です。例えば、少なくとも散歩の時はお念仏を申すことにしようなどというように。そしてそれが習慣となれば理想的といえます。
一方、「愚鈍の身になす」にはどうすればいいのか。本当は定期的に「懺悔」をするのがいいのかもしれません。懺悔をしようとすれば、自身の中の悪しき部分をしっかりと見つめることになるからです。そうはいっても、それはなかなか難しいこと。よって、現実的には自身の中に生じてくる悪しき部分を見つめる努力を常々より行い、それを習慣としてゆくことしかないのかもしれません。ただし、私たちは自分では自分の悪しき部分に気づけない場合も多々ございます。その意味では他人の忠告を素直に受け入れる、もしくは考慮することも必要といえるでしょうか。
いずれにせよ、このようなことを「癖づく」こと(即ち習慣とすること)ができれば、『一枚起請文』の御教えを実践している念仏者ということになることでしょう。浄土宗をあげて、このような念仏者が少しでも増えることを念じております。
令和七年四月一日
浄土門主 伊藤唯眞