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教諭

令和3年1月1日 願譽唯眞

法然上人は念仏のみの自行化他で生涯を終わられましたが、『選択集』で化他の対象について少々触れられた箇所があります。それは独自の選択論を展開して「念仏は修し易し」と述べられた直後の段です。
もし弥陀が「造像起塔」「知慧高才」「多聞多見」「持戒持律」を本願とされたならば、貧賤・愚痴・少聞・破戒の人びとは救済の枠外に置かれてしまう。なによりも彼らは諸行なので往生に多少の差が出ると指摘されています。その上で
弥陀如来は法蔵比丘の昔、平等の慈悲に催されて、普く一切を摂せんがために、造像起塔等の諸行をもって、本願としたまわず。ただ称名念仏の一行をもって本願としたまへり。
と強調されています。
つまり、往生の不確実な貧窮困乏、愚鈍下智、少聞少見、破戒無戒の人びとも、弥陀の平等な慈悲が発現した本願に適った称名念仏の一行によってのみ、往生が確定するということを仰有っていることになります。また、彼らが早く称名念仏者になるよう願っておられるご意図が窺えます。
このように読み取ることが許されるなら、法然上人の教化視線がどのような人びとに向けられていたかがわかります。諸伝記、ご法語などにも通じます。ご自身の見解をのべられたこの箇所から、枠外にいる余行の者への慈愛ある態度が見受けられます。理詰めの『選択集』からも、この部分から上人の温かな人格が偲ばれてきます。
ところで、上掲の引用文で引付けられるのは「平等の慈悲」という言葉です。今に伝わり、現代においても重要な概念となっています。本願とも関わるこの語は浄土宗の教化者として見落とせない言葉です。法蔵比丘の誓願は弥陀の本願となります。その本願によりみ名を称えて正定業を専修された法然上人は三昧発得され、門弟から弥陀の化身と仰がれた法然上人はまさに平等慈悲の体得者でした。
宗祖が浄土宗を開かれてより、近く「八百五十年佳辰」を迎えようとしています。「仏願故」によって開宗された浄土宗の末徒われらは宗祖の心を「念仏でしか救われない」と心得て、自行と化他に勤しみ、その時を待たねばなりません。
合 掌
令和3年1月1日

浄土門主 願譽唯眞