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教諭
平成6年4月1日 心誉康隆
寐ぬれば 佛のみ胸に、
覺むれば 佛のみ手に!
このように思って私は、いつもお念佛を唱えつつ毎夜寝床に入り毎朝寝床から起きております。鹿ケ谷の忍澂上人の「寐ぬれば即ち佛を含み、覺むれば即ち佛を吐く」との言葉を言い換えたものです。いつか佛の慈光裡に生かされ育くまれているとの思いが日に月に強く感ぜられてくることでしょう。
二祖上人は智度論に依って念佛三昧を不離佛・値遇佛と解されましたが、私はそれに高祖や宗祖のお言葉から隨順佛を加えて、この三者が三心の発露として要葛偈道場での右遶三匝の姿と説いております。いつも佛と離れず佛とお遇いし佛に隨って生きる、それこそが念佛三昧現成の姿なのです。三昧とは心の落ち着け方を指す訳ですから、必ずしも仏の相好や浄土の荘厳を観見する謂ではないのです。むしろ現前の日月星辰の輝き、吹く風・降る雨・流るる水や木々の葉ずれ、烏獣の鳴聲、山川草木一切の見聞触知に浄土の風光・如来の慈悲を感受することこそ、三昧発得の意味だったのです。佛身観文に「佛身を観ずるを以ての故に亦た佛の心を見る。佛の心とは大慈悲是れなり。無縁の慈を以て諸の衆生を摂い下う」とある經文こそが念佛三昧の眞義だったのです。天地一切を貫く平等の大慈悲心を汲みとることが肝要なのです。西方行人・願往生人とは、このような慈光裡にわが身と心とをおいて、日々夜々無量寿、無量光のお護り・お育て・お導きを願って、念佛を生命綱・心の杖柱として生き抜く人を指しているのでしょう。
明譽實應大僧正は「聲澄みて松吹く風も南無阿弥陀、あみだほとけと吹き渡るかな」と詠まれました。皆様方も是非松吹く風に念佛の聲を聽き、念佛裡に起臥する「見佛聞法人」となられますよう、切に念じ上げます。猊下の説かれた「自信教人信」とは、正しくかくの如く自ら専修念佛の白道を歩み抜くところに咲く花の言葉といえましょう。 合掌
平成6年4月1日
浄土門主 心誉康隆