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教諭
平成24年1月1日 願譽唯眞
源智上人の阿弥陀仏造立願文には、「回向」の思想にかかわる箇所が三つあります。
一つは、交名中の道俗貴賎、有縁無縁の類が、わたくし源智の教化によって「必ず我師(法然)之引接を蒙り」往生できる、と述べる段。二つには、結縁者のうち、ひとりでも先に往生すれば、「忽ち還り来て残衆を引入れ」また自分が先に往生すれば「速やかに生死の家に入りて残生を導化」したい、とする段。三つには「わが願をもって衆生の苦を導き、衆生の力をもってわが苦を抜き」自他共に九品の蓮台上に化生したい、と願っている段。
第一は、我師の来迎引接を蒙りたいとする点。第二は、念仏に縁り合う者は先に往生浄土した者が「残衆」を助けようと、この土の「生死の家」に「忽ち還り来る」点。第三には、自他の善、和合すること偏えに「網の目」となり、共に相手の苦を断ちあい、自他同じく九品の蓮に生じたいとするところが注目されます。
法然上人は『選択本願念仏集』に「また回向と言うは、彼の國に生じ已って、還って大悲を起こし、生死に廻入して衆生を教化するを、また回向と名づくるなり」(第八章)と、往相と還相に言及されていますが、源智上人の右の第一は、法然上人のこの還相回向を期待してのことであります。また第二は、先に往生した念仏結縁者が後の者の為に還相回向を行うことが求められています。
『百四十五箇条問答』(第二十七条)には、極楽へ往生した者がみな仏になって、この世に還るということはありませんが人を導くために再び穢土に還ってくると、お示し下さっています。しかしその者は決して生死の世界に流転しているのではありません。『選択本願念仏集』の言葉と同じで、ここは還相回向なのであります。
法然上人の『三部経大意』には、「善導和尚、三萬已上ハ上品往生ノ業也ト云ヘリ。数返ニヨリテモ上品二生スヘシ(中略)上品ヲ欣フコト、我身ノ為二アラズ、彼ノ國ニ生レヲワリテ、カヘリテ疾ク衆生ヲ化セムガ為也」とあって、還相回向の為に上品往生が勧められています。
この還相回向を志し、とくに上品上生を期したのが熊谷直実であります。直実は元久元年(一二〇四)五月十三日、鳥羽の上品上生の来迎仏の御前で「極楽に生まれたらんにとりては、身の楽の程は下品下生なりとも限りなし。しかれども天台の御釈に、下し八品不可来生と仰せられたり。同じくば一切有縁の衆生、一人も残さず来迎せん。若しは、無縁までにも思ひかけて、とぶらはんがために、ただ偏に人のために、蓮生、上品上生に生まれん。さらぬほどならば、下八品には生まれまじ」と発願したのでありました。
また上人の『鎌倉二位の禅尼への御返事』にも「かかる不信の衆生を思えば、過去の父母兄弟親類なりと思し召しそうらいて、慈悲を起して、念仏申して極楽の上品上生に参りて、悟りを開いて、生死に還り入りて、誹謗不信の人を迎えんと思召すべき事にてそうろうなり」と述べておられます。
このような法然上人の回向観が、源智上人の造立願文にも反映されているのであり、さらに云えば、曇鸞が『往生論註』で、回向を往相回向と還相回向の二種で説明しているのに因っているのであります。源智上人は、念仏行者間の絆として回向を重視されています。源智上人の場合は、集団を連結する教化理論としての回向であったように読み取れるのであります。ここに源智上人が云う「愚侶の方便力」すなわち教化力があったと思います。
我々教師もまた、自他二利の善を和合させ、共に相手の苦を断ちあう「網の目」となり、自他同じく九品の蓮に生じたいとする回向の心を持ってお念仏を相続していきたいものと存じます。
合 掌
平成24年1月1日
浄土門主 願譽唯眞