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教諭

令和6年1月1日 願譽唯眞

 法然上人の生涯は「念仏に至る」求道の前半生と、「念仏に生きた」教化の後半生とに分かれます。その分岐点が、善導大師の釈義によって弥陀本願に相応した念仏行に独り立ちの価値を悟得された、かの承安五年であります。

これより上人は、直ちに余行を止めて念仏一行に帰されたのでしたが、間もなく治承の内乱が生じ、世の中は源平の争乱に巻き込まれました。

そのなかを諸経論の研究に専念されていた上人でしたが、木曽義仲が京に乱入した日だけできなかったと嘆かれたのは、その三年後のことでした。

しかしこの騒乱のなかでも上人は、浄土三部経典や浄土諸師の論書の研鑽を一段と続けられ、救済者である弥陀の聖意をその本願に窺うとともに、称名の行があらゆる凡夫に適った勝行であることを論証しようとなされました。法然上人の心底には、凡夫の我らが誰ひとり漏れることなく往生できるのは浄土の法門を除いて他にはない、との強い信念が存在していたからです。

このような時、平家滅亡後の苛烈な残党狩りが終わろうとする文治二年に、大原隠栖中の顕真法印との論談がありました。この「大原問答」が、弥陀の本願力を仰ぎ凡夫の往生を力説された法然上人の存在をひろく世間に知らしめる契機となりました。かくして上人の名は諸宗・貴紳の間に広がり、彼らはその教説に関心を持ったのです。

その三年後の文治五年八月、上人は九条兼実邸に招かれ、法文を語り「往生業」を談じあいました。それは兼実の長男良通(内大臣)がその前年に頓死したのを悲しみ、その悲嘆から逃れる為の聴聞でしたが、上人と出会ってから七日後に兼実は受戒し、また恒例念仏を始めるのを例としました(『玉葉』)。このような法然上人への帰信が、後年、兼実をしてかの『選択集』述作を上人に慫慂せしめたのでした。

法然上人と兼実の道交が進展するなか、上人は東大寺の勧進ひじり重源の要請を受け、南都でも浄土三部経を講じ、新視角からの口称念仏の卓越性を強調されました。文治六年二月のことです。『阿弥陀経釈』『観無量寿経釈』には奥書がありますが、『無量寿経釈』にはそれがみられません。しかし『法然上人行状絵図』巻三〇には、建久二年のころ浄土三部経を講じられたと伝えていますので、『無量寿経釈』が成ったのも東大寺講席が持たれたのも、文治・建久の交に在ったと考えてよいでしょう。「東大寺十問答」も建久二年三月のもので前年にも上人と重源の問答があったようです。また安楽房遵西の父・外記入道師秀が催した逆修法会への上人の説法があったのも建久五年との説があります。

右に出た上人の釈書、問答、説法などは、上人の回心後十数年を経、『選択集』の成立に程なく近づくといった頃合いです。まさに「世ノカワリノ継目」(『愚管抄』)であればこそ、乱世に苦悩する人々に対し、口称念仏こそが弥陀の本願にかなって誰彼なくひとしく極楽に往生できるという釈迦のお勧めを、上人はその根拠を経証に求めて、それを勧説せざるを得なかったのです。

こうして成った『無量寿経釈』ですが、この講述にはすでに法然教学に特徴的な「選択」の語が用いられています。『無量寿経』の異訳『大阿弥陀経』に「選択」の語があるのを引き「この中の選択とは、即ちこれ取捨の義なり」と述べられて、例として第十八願念仏往生願について、「布施持戒乃至孝養父母等の諸行を選捨して専称仏号を選取す。故に選択すと云うなり」と説かれます。そして、なぜ十八願に一切の諸行を選捨して念仏の一行のみが選取されたのかと自問し、「聖意測り難し」としながらも勝劣・難行の二義を以て仏意を窺う『無量寿経釈』の文章が続きます。

『無量寿経釈』の「入文解釈」に入ってからの記述は少し長いのですが、それらが『選択集』第三章の私釈段に全文記載されています。私釈段では途中に『往生礼讃』『往生要集』の要文が挿入されていますが、その直後には造像起塔・智慧高才・多聞多見・持戒持律をもって本願とされたなら、貧窮困乏・愚鈍下智・少聞少見・破戒無戒の人は定めて往生の望みを断ち、世の中には貧窮・愚痴・少聞・破戒の者で溢れているのだ、という上人の社会認識が特記されています。

この点『無量寿経釈』では、右に相当する部分を要略左記しますと、次の通りです。

もし布施を別願とすれば貧窮の人は生ぜず、起塔を別願とすれば往生できるのは阿育王のみで困乏の者は往生できない。稽古鑽仰が別願となれば訪生光基らは生じて寡聞狭劣者は適わない。もし貴家尊宿が別願ならば一人三公は往生できるが万民百庶は得生できない。しかるに今、念仏往生の本願は有智無智を選ばず。持戒破戒を嫌わず。少聞少見を云わず、一切心有るの者、唱え易く生じ易い。

両者を対比しますと、大旨は通じていますが、構文、例文語句等にかなりの相違があり、『選択集』の方に洗練さが多分に認められます。この後に続く箇所、すなわち「聖意難測」(勝劣難易二義)の部分は両書等しく記述されていますが、『無量寿経釈』では他事項が続くのです。『選択集』には、先稿の『無量寿経釈』が必要に応じ再録されていて、上人の思想展開上に必要な地位を占める経釈だと言わざるを得ません。

法然上人のご生涯中、この文治・建久の間は五十歳半ばからの十余年間に相当し、浄土宗の教団形成が確実に推進した時期であります。この間の著述、説法にも宗の相承血脈が説示されています。念仏に心を寄せるもの、正に一人三公すなわち後白河院はじめ九条兼実などから、下は都鄙衆庶まで及び、入室の弟子、去来する念仏ひじりが着実に増えたのもこの時期です。上人が諸寺の別所聖、非官僧と積極的に接点をもった時期でした。達磨宗を立てようとした大日能忍や栄西とも名を連ねた上人の一行一筆結縁経(愛知 西光寺)が近時知られ、上人の『無量寿経釈』にも「達磨宗」の名称が出ています。宗教界に新風が吹こうとする時節だったのです。

そのような時、かの兼実一族は高貴を極めても安泰ではなかったのです。建久七年暮、兼実は関白を罷ていました。上人との面謁も希になったので、「往生の信心を増進せしめんが為、抄物を記して賜うべし」との仰せが、上人に代って参上した証空に有ったのです(『選択密要決』)。時に建久九年三月、上人六十五歳の春。真観(感西)が法文義を談じ、証空が経釈要文を引き安楽・(遵西)が執筆したという(同上)。親鸞も「禅定博陸 月輪殿兼実 法名円照の教命により撰集せしむ所なり」と『教行信証』後序で述べています。

かくして『選択本願念仏集』は成りました。その後序において、『観経疏』と出会ってよりの感興を述べる段で、法然上人は念仏の教が現に興隆したことについて、次の通り特記しておられます。「浄土の教、時機を叩いて行運に当れり。念仏の行、水月を感じて、昇降を得たり」と。

船の渡し場を問う者には西方極楽浄土への渡し場を教え、行を尋ねる者には念仏を示しました。だから浄土の教は、今の私らの器と適合し、興隆する巡り合せに当ったのです。念仏の行は、月が地上の水面に映えているように、地上の凡夫が彼方にまします仏と感応し合えるのを可能にして下さったのです。念仏こそが凡愚のわれらを仏に結ばせたのです。念仏がもつ尊さに思いを深くし、「念仏に生きた」上人の後半生を閉じるに当り、上人の名句「念仏之行、感水月得昇降」を念仏者は共々に銘じておきたいものです。

浄土門主 伊藤唯眞

令和六年一月一日