五、意味のある消極─法然上人にみる怨親平等
浄土宗布教師会近畿地区支部 山本 正廣



1うらみの社会
この現代社会、不平不満でいっぱい。あいつがどうした、こうした、ひきかえ自分は……と不遇をかこつ言葉が蔓延まんえんしている。これは、ねたみ・そねみと言われるたぐいのもの。ねたみ・そねみ・嫉妬は内なる逼塞ひっそくだが、それを外部へ向かって行動に移す精神の力が「うらみ」と言える。
 「怨み屋」という商売をインターネットで発見した。うらみの内容を分析し、有料で呪詛じゅそ逼塞の肩代わりをする商売らしい。見積もりの上、適正価格で執りおこなうとある。その誘い文句には、「相手に対して恨み(怨み)や憎しみの感情を抱き、復讐。仕返しを願うことは当然の心理です」とあるではないか。安心して復讐。なるほど時代かと寒心を覚えるのは筆者のみではあるまい。
 しかしはたして、「うらむ」のは人間にとって当然の心理行動なのだろうか?
 うらみ。
 怨・恨・憾・慍・慊・恚 ……。
 「うらみ」と訓読みする漢字は数え切れないくらいある。そして、そのほとんどが「りっしんべん(忄)」か「心」がつく。「うらみ」は人間の心の問題としてとらえられるようだ。「えん」は、心がまがって、押さえられている状態。「こん」は、心が強く背いた状態。「かん」は、心が動いてさらに心極まった状態。 「おん」は、心が内に籠もっている状態をさす。(1)
ここで読み取れることは、「うらみ」とは心が抑圧され自分自身の中に向かい、極まって、さらに外へ攻撃的になった状態と言えるだろう。最初自分自身に向かった心理的攻撃が、次に他者に向かう、これがうらみの構造である。
 すなわち、ねたみが発生して、それに終わらずさらに他人を心理攻撃する。他者攻撃であるうらみ行動は、自分の傷ついた心を修復させるためにあるとも理解できよう。
 さて、うらみが本来おのれの心の問題であるとすれば、おのれに向かう最初の抑圧で終了させれば、他者へ向かううらみは発生しない……。なるほどそうだが、心の問題はそう単純に対処できない。うらむな、うらむな、と言ったって、簡単な所作ではない。心の方向をコントロールすることはかなりの難行道である。すでに自分の心が傷ついているのだから。