四、凡入報土の論理

2、たすきがけの教え ―仏辺の論理―
本節では、前節でみた「平行線の教え」を覆し「仏辺の論理―阿弥陀仏の常識―」とも言える「たすきがけの教え」を確立された法然上人の主張、すなわち、凡入報土の基本的構造について考察していく。
 まずは「浄土立宗の御詞」後段の説示である。
諸宗の所談、異なりといえども、凡て凡夫報土に生まるることを許さざる故に、善導の釈義によりて、浄土宗を立つる時、すなわち、凡夫報土に生まるること現わるるなり。(33)
【現代語訳】さまざまな宗派で論ずるところは一様ではないが、総じて凡夫が阿弥陀仏の報土たる極楽浄土に往生するという事実を決して認めない。それ故、善導大師の妙釈に基づいて浄土宗を立宗する時、凡夫が阿弥陀仏の報土たる極楽浄土に往生するという事実が、はじめて明らかになるのである。
 つまり、天台宗や法相宗ばかりか、法然上人在世当時に存した各宗派(無論、その後成立した宗派も含めて)のいずれもが、その名称や詳細な配当などは異なるものの、凡夫(Dランク)が阿弥陀仏の極楽浄土(Aランク)に往生するという凡入報土の道理を認めてはいなかった。したがって法然上人にとって『観経疏』をはじめとする善導大師の著作に基づいて浄土宗を立宗する以外に、凡入報土の道理を提示することは不可能だったのである。ここで法然上人が拠り所としている善導大師の主張とは『観経疏』玄義分に説かれる次のような説示である。
問うて曰く、弥陀浄国は、はたこれ報なりや、これ化なりや。答えて曰く、これ報にして化に非ず。云何が知ることを得たる。『大乗同性経』に説くがごとし、「西方安楽阿弥陀仏は、これ報仏・報土なり」と。また『無量寿経』に云く、 「法蔵比丘、世饒王仏せにょうおうぶつみもとに在って、菩薩の道を行じたまいし時、四十八願を発し、一一に願じて言く、もし我れ仏を得たらんに、十方の衆生、我が名号を称して、我が国に生ぜんと願じて、下十念に至るまで、もし生ぜずんば、正覚を取らじ」と。今すでに成仏したまう、すなわちこれ酬因の身なり。(中略)問うて曰く、彼の仏および土、すでに報なりと言わば、報法は高妙にして、小聖すらのぼり難し。 垢障くしょうの凡夫云何が入ることを得ん。答えて曰く、もし衆生の垢障を論ぜば、実に欣趣し難し。正しく仏願に託して、以て強縁とるに由って、五乗をして斉しく入らしむることを致す。(34)
ここで善導大師は、『無量寿経』や『大乗同性経』を典拠として阿弥陀仏とその極楽浄土を明瞭に報仏・報土と規定している。また、その報土へは聖人すら往生することができないのに、ましてや垢障の凡夫が自身の修める功徳によって往生することなど叶うはずもない、「仏願に託し」、それを「強縁と作る」ことのみによって凡入報土の道理が明らかとなると述べられている。こうした説示を踏まえて『翼賛』は次のように述べている。
善導の釈義は観経の疏に見えたり。諸の人師本願の深旨を明らめずして仏意を顕す事尤もうとし。ひとり善導のみ其の旨を得給て凡夫報土に生るることも浄土の高き事をも本願の深妙なる事をも釈出し給ければ仏意ますますあきらかなり。(35)
すなわち、天台・法相をはじめとする聖道門の諸師は「本願の深旨」や「仏意」を明らかになし得ず、善導一師のみ阿弥陀仏の本願の真義を開顕し、生死輪廻を繰り返す凡夫(Dランク)が、称名念仏(「機辺」から見ればDランク)ただ一行によって、阿弥陀仏の報土たる極楽浄土への往生(Aランク)を叶えることができるという凡入報土の道理を導き出し得たと述べている。このようにA→A→Aなどと次第する「平行線の教え」ではなく、D→D→Aと交差して進んでいく教えをその構造から「たすきがけの教え―仏辺の論理―」と名付けることとしたい。凡入報土の教えは、まさにこの「たすきがけの教え」なのである。「浄土立宗の御詞」は続く。 ここに人多く誹謗して曰く、「必ず宗義を立せずとも、念仏往生を勧むべし。今宗義を立つることは、ただこれ勝他のためなるべし。我等凡夫、生まるることを得ば、応身応土なりとも足りぬべし。何ぞあながちに報身報土の義を立つるや」と。この義一往理なるに似たれども、再往を言えば、その義を知らざるが故なり。もし、別の宗を立せずば、凡夫報土に生ずる義も隠れ、本願の不思議も、現れ難きなり。しかれば、善導和尚の釈義に任せて、堅く報身報土の義を立す。これ全く勝他のために非ずとぞ、仰せられける。(36)
【現代語訳】こうした浄土宗の主張に対し、多くの人々が非難して言うことには「必ずしも新たに一宗を開立しなくとも、念仏往生は勧められる。今、新たに浄土宗の教えを立てようとするのは、他宗の教えより自宗の方が勝れていることを誇示するためだ。我らのような凡夫の浄土往生が叶うのであれば、たとえ低次と評価されようが応身や応土であっても満足すべきではないか。どうして強いて高次の報身や報土という教義を立てる必要があるのだ」と。こうした非難は、表面的には道理に叶っているように見えるが、深く考えれば、私が浄土宗を立宗しなければならない理由をまったく理解できないことからくる偏見に過ぎない。もし、あえて私が浄土宗を立宗しなければ、凡夫が阿弥陀仏の報土たる極楽浄土に往生が叶うという道理が隠れてしまい、阿弥陀仏の本願という私たちには計り知れないお力も埋もれてしまいかねない。そうしたわけで、善導大師の妙釈を拠り所として、いかなる非難にも動じずに報身阿弥陀仏に帰依し、報土極楽浄土への往生を求めるという教義を開立するのである。このことは決して他宗の教えよりわが宗の方が勝れていることを誇示するためではない。
 法然上人に対するこうした非難中傷は、どこまでも「平行線の教え」の範疇で想定されたものである。すなわち、その言葉の裏に秘められた構造とは「厳しい仏道修行(Aランク)を積み、この上ない悟りの境地(Aランク)を目指している私たち出家者(Aランク)と異なり、お前達のように愚かな凡夫(Dランク)は、誰にでも易しいが功徳も劣る称名念仏(Dランク)を修め、レベルの低い応土(Dランク)にでも往生すればそれで充分だろう」という次元の非難だからである。こうした「平行線の教え」を根底から覆さない限り、阿弥陀仏の本願の真意たる「たすきがけの教え」が正しく理解されようはずはない。  そもそも善導大師が九品皆凡を主張されたように、善導大師・法然上人に共通する徹底した人間観によれば、あらゆる人間はまぎれもなく凡夫(Dランク)である。したがって、A・B・Cなどとランク付けを施すこと自体が「機辺の論理」に過ぎない。報身阿弥陀仏の視線の前(仏辺)では、先に見たようなAやBやCのランクに配当される人間など存在しない。善導観の変遷の結果、『選択集』において弥陀化身たる善導一師に偏依されることを高らかに宣言された法然上人が『一紙小消息』において「(弥陀化身たる善導大師ご自身が)自身はこれ煩悩を具足せる凡夫なりとのたまへり(37)」と述懐されているように、実存的な立場からみれば、宗祖・高祖と言われるような方々も、いわんや各宗の僧侶達も含めてみな凡夫(Dランク)に他ならない。これこそ信機の自覚であり、法然上人による絶対的な人間観である。ところが、そうした絶対的人間観を理解できず「難行(=勝行=Aランク)を修めている自分たち(=Aランク)の方が勝れた功徳(Aランク)を享受できるのは当然だ」という「平行線の教え」の論理構造から抜け出せない者が、このご法語にあるように「たすきがけの教え」の論理構造を非難するのである。
 ちなみに、法然上人在世当時、念仏と諸行の関係や往生行と成仏行との併修をめぐる仏教界の支配的常識は「成仏という難しい功徳でさえ実現する諸行(勝)を往生という易しい功徳に廻向すれば、たやすくその望みが叶う」あるいは「易しい念仏なのだから難しい諸行と併修してもなんら差し支えない」というものであった。こうした常識の底流に厳然している思考こそが「平行線の教え―機辺の論理―」に他ならない。すなわち、この世で悟りを開く成仏の教えがAランクで、往生の教えなどそれより数段ランクの低い教えであると自分勝手に捉え、だからこそ聖道門の僧侶は「Aランクの成仏行の功徳をランクの低い往生の功徳に振り向ければ、たとえ成仏は叶わなくとも往生程度の功徳は叶うだろう」と主張していたのである。
 しかし、法然上人は、往生行と成仏行とを峻別し得ず「平行線の教え」で論じてしまうのは言語道断であり、善導大師をはじめとする浄土教祖師でさえ一向に念仏を修めたように、われわれも一向に念仏を修めるべきであると主張され、そうした支配的な常識に敢然と立ち向かっていかれたのである。わが足元に広がるこの娑婆世界で悟りを開くという成仏の教えと、はるか西方十万億の彼方にある極楽浄土に往生を目指す往生の教えを同じ土俵で論じ合おうとする方が土台無理な話なのである。  さらに言うならば法然上人は、たとえ往生行と成仏行という次元の相違こそあれ、諸行を実践する機根とその行相とがまったく同じである以上、成仏行における諸行の成就不可能という図式は、往生行としての諸行の成就不可能という結果をも否応なく導き出されることとなるのだ、と訴えたかったのであろう。  それでは、なぜ凡夫(Dランク)が阿弥陀仏の報土たる極楽浄土(Aランク)に往生する「たすきがけの教え」である凡入報土が叶うのであろうか。この点については「本願の深旨」や「仏意」などと、すでに答えは提示されているが、今一度その構造について確認作業を施してみたい。  先述したように、法然上人による絶対的人間観では、言ってみればDランクの凡夫しかいない。その凡夫にはA・B・Cランクの行(就中、その成就)など望むべくもなく、称名念仏しか修めることはできない。したがって、その行には浅薄な功徳(Dランク)しか含有されていない。そもそも法然上人は、釈尊が説かれた因果応報の道理に基づいて浄土宗を開宗された。浄土宗の阿弥陀仏は法身でもなく、法身を存在の根拠とした仏身でもないので因果応報の道理(「平行線の教え」に通じる)を根底から覆すことを決してされはしないし、だからこそ「即」の論理で思考停止を繰り返す絶対的一元論(本覚思想に通じる)の世界観に埋没することもない。あくまでも私たち凡夫(Dランク)が修められる称名念仏はDランクの功徳しかないのである。
 しかし、それでは西方十万億の彼方にある極楽浄土への往生(Aランク)は叶わない。それを叶えるために阿弥陀仏は、四種三昧や三密加持、坐禅や題目など、いかなる仏道修行をも「全く比校に非(38)」ざるような勝れた功徳(Aランク)を、称名念仏を修めた者に用意しなければならなかった。そのために阿弥陀仏は「五劫思惟」されて四十八願を建立し、その第十八願に称名念仏を本願行として選択され、それを成就せんがために「兆載永劫」のご修行を積まれ、見事にそれを成就されて《報身仏》となられたのである。
 ここに称名念仏の功徳が転換される。「機辺」から見ればどこまでもDランクの功徳しかない行であるが、「仏辺」から見れば報身阿弥陀仏の本願力が加わる超Aランクの功徳を具えた決定往生行へと昇華されることとなる。すなわち選択本願念仏は、阿弥陀仏が劣(仏辺の劣)・難(仏辺の難)と判断して選捨されたあらゆる諸行に対し、私たち凡夫(=Dランク=絶対的人間観)にとってはオンリーワンの易行(仏辺の易)でありつつ、他のいかなる行をも「全く比校に非」ざる行として阿弥陀仏が万徳を込めたナンバーワンの勝行(仏辺の勝)として選取されたのである。本願念仏の「ひとりだち」である。これによって私たち凡夫(Dランク)の修めるDランクの称名念仏が、そのままで超Aランクの本願念仏へと転換・昇華され、阿弥陀仏の報土たる極楽浄土(Aランク)への往生が叶うこととなるのである。D→《D→本願力→超A》→Aと次第する「たすきがけの教え―仏辺の論理―」の成立である。
 阿弥陀仏による勝劣難易二義に基づく選択本願念仏の理解には「平行線の教え―機辺の論理―」から「たすきがけの教え―仏辺の論理―」への流れの整理が不可欠である。「浄土立宗の御詞」を通じて法然上人は、こうした凡入報土の論理を明瞭にされることに成功したのである。
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