四、凡入報土の論理
―「平行線の教え」から「たすきがけの教え」へ―
1、平行線の教え ―機辺の論理―
本章では、第五重の勧誡においてしばしば取り上げられる法然上人述「浄土立宗の御詞」を通じ、一代仏教を聖道浄土二門に基づいて分判された法然上人が、このご法語を通じてどうしても明らかにしなければならなかった「たすきがけの教え」(=救いの論理=仏辺〈仏の側からのアプローチ〉の論理=阿弥陀仏の常識)と、その対比としてどうしても覆さなければならなかった「平行線の教え」(=悟りの論理=機辺〈凡夫の側からのアプローチ〉の論理=凡夫の常識)という視点から浄土宗義の根幹ともいえる凡入報土の教えの基本的構造について解明したい。まずは「浄土立宗の御詞」前段の説示である。
上人、或る時語りて宣わく、我、浄土宗を立つる心は、凡夫の報土に生まるることを、示さむためなり。もし、天台によれば、凡夫浄土に生まるることを許すに似たれども、浄土を判ずること浅し。もし、法相によれば、浄土を判ずること深しといえども、凡夫の往生を許さず。(20)
【現代語訳】私(源空)が浄土宗を立宗した意図は、私たちのような弱い心をもった凡夫がこの上のない阿弥陀仏の報土、すなわち極楽浄土へ往生すること(凡入報土)を示したい、という点にある。もし天台宗の教えにしたがえば、凡夫が極楽浄土へ往生することを認めるという点で、わが浄土宗に似てはいるものの、その浄土への評価はきわめて低次なものである。もし法相宗の教えにしたがえば、極楽浄土への評価はたいへん高次なものではあるが、凡夫の往生をまったく認めない。
こうした法然上人による説示について『円光大師行状画図翼賛』(以下、『翼賛』)は次のように註釈している。
報土とは大抵諸仏の因行にむくひて清浄の果徳をかざりたる不思議の国土をさして云ふなり。東方の浄瑠璃、西方の無勝荘厳など云へるは即ち報土なり。もし聖道門の意に依りていへばかかる微妙の報土に生れんには三界に繋縛すべき煩悩業障及び所知障を断じ尽さでは叶はぬ事なり。されば初地已上の深行の薩ならでは生るる事あたはずとこそは判ぜらる。凡夫争(いかで)か望をかけんや。自力の人師、凡夫をば許さぬ習とせるは此の故なり。摂論の本末、瑜伽唯識等の論判みなかくの如し。(21)
つまり、聖道門の理解では「微妙の報土」へは初地以上の菩薩のみが往生を叶えることができるのであり、「三界に繋縛」している凡夫が往生することなどできようはずもないのである。そして法然上人は、その具体例として天台宗と法相宗の理解を提示している。
その中、天台宗の理解とは、天台大師智撰『観無量寿仏経疏(22)』や同『維摩経略疏』第一(23)に説かれるもので、諸仏の国土をその性格から凡聖同居土・方便有余土・実報無障礙土・常寂光土に分判する四種土を指している。それについては、円教・別教などといった四教の別により詳細は異なるが、劣応身を教主とする凡聖同居土は文字通り凡夫と聖者が共存する三界の内にある国土で穢土(娑婆)と浄土の別を立てている。後の三者は三界の外にある国土である。すなわち、勝応身を教主とする方便有余土は声聞・縁覚の二乗や三賢(十住・十行・十廻向)の菩薩などが居する国土で、他受用報身を教主とする実報土は十地の菩薩が居する国土である。さらに自受用報身を教主とする常寂光土は、彼此相対の枠をこえた第一義諦そのもの、諸法実相の涅槃界を指している。
この四種土の分別の中、阿弥陀仏の極楽浄土については、同じく『維摩経略疏』第一に「同居浄土を明さば、無量寿国は、果報殊勝にして比喩す可きこと難しと雖も、然れども亦染浄凡聖同居なり(24)」とあるように、凡聖同居土を穢土と浄土の二種に分けたうちの後者に配当しているに過ぎない。
このように天台宗における四種の仏国土理解は、『翼賛』に「此の四種の国土、後々は深高にして前々は下賤なり(25)」と指摘されているように、浄土をAランク(=常寂光土)・Bランク(=実報無障礙土)・Cランク(=方便有余土)・Dランク(=凡聖同居土)という優劣に配当し、そのうち、阿弥陀仏の極楽浄土をもっとも低次のDランクの国土にあてはめているのである。
以上の消息を踏まえて『翼賛』は、次のように述べている。
天台の意、凡夫極楽に生ずることを許せども所生の土を下劣の同居土と判じて報身報土とは許さず。されば浄土宗所談の報身報土の極楽に生ずるにはあらず。されども只凡夫極楽に生ずると云ふ辺は浄土宗に所謂る報土に生ずるやうにきこゆれば似たりとの給へるなるべし。(26)
すなわち、天台宗の教えに基づけば、一見、凡夫の浄土往生を認めているようには見えるものの、その浄土はどこまでも劣応身を教主とする「下劣の同居土」であって、その構造は浄土宗の教えとは「似て非なる」教えであることは明瞭である。
次に法相宗の理解とは、玄奘三蔵訳『成唯識論』第十(27)や慈恩大師基撰『大乗法苑義林章』巻第七(28)に説かれる、やはり仏国土を四種に配当した説示を指している。すなわち、自性身(法身)が所依とする法性土、自受用報身が所依とし自身の悟りを自ら享受する自受用土、他受用報身が所依としその楽しみを十地の菩薩に享受させる他受用土、そして、変化身(応身)が所依とし、地前の菩薩や声聞・縁覚・凡夫のための変化土の四土である。
この四種土の分別の中、阿弥陀仏の極楽浄土は、同じく『大乗法苑義林章』巻第七に「西方は乃ち是れ他受用土なり(29)」とあるように、初地以上の深行の菩薩しか往生することができない他受用報土に配当されている。つまり、法相宗による四種の仏国土理解は、天台宗同様、種々の浄土をAランク(=法性土)・Bランク(=自受用土)・Cランク(=他受用土)・Dランク(=変化土)という優劣に配当し、阿弥陀仏の極楽浄土をCランクの国土にあてはめている。すなわち、法相宗によれば、阿弥陀仏の極楽浄土は他受用報土の仏国土としてそれなりに評価は高いものの、そこには初地以上の菩薩しか往生することができず、いわんや凡夫の往生など望むべくもないのである。
これまで「浄土立宗の御詞」に沿って、天台宗と法相宗との仏土論、就中、極楽浄土の位置付けについてみてきた。なるほど法然上人在世当時、その勢力が非常に強く、もっとも教えが体系化されていた宗派こそが天台宗と法相宗であり、そうした状況を踏まえて法然上人は、あえて天台宗と法相宗を挙げているものの、こうした仏土論を展開しているのは、なにもこの両宗に限ったことではない。すなわち、地論宗の浄影寺慧遠は『大乗義章』第十九(30)において事浄土・相浄土・真浄土の三土を、三論宗の吉蔵は『大乗玄論』第五(31)において凡聖同居土・大小同住土・独菩薩所住土・諸仏独居土の四土を主張しているように、多くの祖師が天台・法相両宗とほぼ同様の仏土の判別を施しているのである。
いずれにしても法然上人は、そうした各宗の仏土論を踏まえつつ、聖道門の教えの代表として天台宗と法相宗を取り上げている。そこで「浄土立宗の御詞」の法然上人の主張のままに、天台・法相両宗の極楽浄土の評価と凡夫往生についてまとめると次の表のようになる。
|
極楽浄土 |
凡夫往生 |
天台宗 |
低次の評価 |
認める |
法相宗 |
高次の評価 |
認めない |
すなわち、天台宗では阿弥陀仏の極楽浄土への凡夫往生を認めるが、その浄土は劣応身の凡聖同居土に過ぎない。一方、法相宗では阿弥陀仏は他受用報身、その浄土は他受用報土で比較的高い評価が与えられるものの、凡夫往生など決して認めはしないということが分かる。
さて、前の表によると両者の教義は表面的には異なっているようにみえるが、実は次のようにまったく同趣旨の教えとして評価される。
往生人の階位等 |
A
↓
A
↓
A |
B
↓
B
↓
B |
C
↓
C
↓
C |
D
↓
D
↓
D |
修める行 |
仏国土(功徳)等 |
つまり、往生人の階位等がA・B・C・Dランクの者には、(「浄土立宗の御詞」には直接の言及はないが)その修めるべきA・B・C・Dランクの行(もしくは、その成就による階位の上昇を必須条件としている)が用意され、それぞれA・B・C・Dランクの仏国土に往生するという功徳がもたらされる。このようにA→A→A、B→B→B、C→C→C、D→D→Dと横に進んでいく教えをその構造から「平行線の教え―機辺の論理―」と名付けることとしたい。これを「浄土立宗の御詞」の天台宗と法相宗に言及した箇所にあてはめると「もし天台宗の教えにしたがえば、凡夫(Dランク)が極楽浄土へ往生することを認めるという点でわが浄土宗に似てはいますが、その浄土への評価はきわめて低次なもの(Dランク=凡聖同居土)です。もし法相宗の教えにしたがえば、極楽浄土への評価はたいへん高次なもの(Cランク=他受用報土)ではありますが、凡夫(Dランク)の往生をまったく認めません」となるのである。このように法然上人在世当時のすべての仏教宗派の教義は、凡夫(Dランク)が阿弥陀仏のこの上のない報土たる極楽浄土(Aランク)に往生するという事実を決して認めない教えであった。
聖道門において「平行線の教え」の構造が堅持される理由は、『翼賛』に「是れみな自力を先として本願の深意を探ること善導の如くならざる故なり(32)」と指摘されているように、「機辺の論理―凡夫の常識―」とも言える「自力」の構造を最優先にしてしまい、善導大師が主張する「本願の深意」を探り得られなかったからに他ならない。
ちなみに、天台宗や法相宗による浄土の評価においては、無分別智・出世間智などと性格づけられる彼此相対の枠をこえた常寂光土や法性土をAランクに配当しているが、わが浄土宗においては、そうした無相・無念の浄土に対しては積極的価値を見出すことは決してなく、無分別後得智・出出世間智などと性格づけられた浄土、すなわち、三界を勝過して無分別智・出世間智を踏まえつつも有相・有念といった仏と凡夫、凡夫と凡夫の相対的関係が成立し得る世界である極楽浄土にこそ最高の価値を見出している。そういった意味において浄土宗では、阿弥陀仏の極楽浄土こそ最高ランク(Aランク)に他ならないことを浄土宗僧侶は確認しておかねばならない。