三、三義校量について

4、在決定の義について
 最後に「在決定の義」についての説示と三義校量の総結である。
云何んが決定に在る。彼の造罪の人は有後心・有間心に依止して生じ、此の十念の者は無後心・無間心に依止して生ず。是を決定と名づく。三義を校量するに、十念は重し。重き者、先ず牽きて能く三有を出ず。両経、一義なるのみ。(18)
【現代語訳】第三に「在決定」という視点は次のような意味合いである。すなわち、悪業を犯す人は「(臨終まで)まだ時間があるという心(有後心)」や「雑念を交えた心(有間心)」に基づいている。それに対して、人が臨終の時に称える十遍の念仏は「もう時間がないという心(無後心)」や「雑念を交えない心(無間心)」で修められている。これが「在決定」という視点である。
 以上の三つの視点を比較考察してみると(凡夫の罪業の報いに比べて)十遍の念仏の功徳の方がはるかに重いことが知られよう。因果応報の道理から考えてみても、重い方がまずその報いを受けるのだから、無始から積み重ねてきた罪業がどんなに重くとも、それよりはるかに功徳のある念仏を修めた者が生死輪廻を経巡る三界を離れ出ることができるのは当然である。こうしたことから『業道経』の説示と『観無量寿経』の説示とは、決して矛盾するものではなく、いずれも同じ因果応報の道理を説いていると結論づけられるのである。
 大師がこうした有後心と無後心との関係を見出した典拠は、四論の中、龍樹菩薩造『大智度論』巻二四の次の説示である。
死に臨むの時の、少許(しばらく)の時の心、云何んぞ能く終身の行力に勝るや。答えて曰わく、是の心は時頃(とき)少なしと雖も、心力猛利なり。火の如く毒の如し、少なしと雖も能く大事を成ず。是の死に垂(なんな)んとする時の心は、決定して猛健なるが故に、百歳の行力に勝る。是の後心を名づけて大心と為す。 (19)
 こうした『大智度論』の説示を受けた大師は、たとえ無始の彼方から今に至るまで犯し続けてきた悪業であろうとも、それは有後心・有間心の上になされたものであって、臨終の時に称える十遍の念仏は無後心・無間心の上になされるものであるから浄土往生が叶えられる、とわれわれの心が置かれている状況の根本的相違点に注目して「在決定の義」を明らかにされたのである。
 そして、以上の三義を通じて大師は、無始の彼方から計り知れないほど積み重ねてきたわれわれ凡夫の罪業がどれほど重かろうとも、最期臨終の夕べに称える十遍の念仏の功徳の方がはるかに重いので凡夫が三界を出離し浄土往生が叶うのだとして、『業道経』と『観無量寿経』の説示内容に対する疑義の解決を目指されたのである。
 以上、結縁五重相伝の第五重の勧誡において多く取り上げられる在心・在縁・在決定の三義校量について若干の解説を施してきた。
 ところで、こうした三義校量は、どこまでも私たち凡夫が抱く疑義の払拭を目指しているため、私たち凡夫の信心に比重を置いた説示になっていることは否めない。すなわち、本願念仏の教えに対し虚仮の心を決して抱かず常に真実であるから(在心の義)、念仏行者を等しくお救いくださると仰せになられた報身阿弥陀仏を深く信じるから(在縁の義)、今生こそは必ずや浄土往生を遂げるのだという揺るぎなき願いがあるから(在決定)といった三義校量は、念仏行者が具えるべき三心に一脈通じるものがあると考えられる。そして、だからこそ三義校量の説示が、浄土往生を目指す念仏行者にとって確固たる信心涵養の格好の譬喩となってきたのであろう。
 とはいえ、無始の彼方から計り知れないほど積み重ねてきたわれわれ凡夫の罪業の報いを消し去り、浄土往生というこの上ない当来の果報が叶えられるのも、こうした信心を具えたわれわれ凡夫が称える念仏の呼びかけに応じて阿弥陀仏が本願力を加えてくださるからに他ならない。したがって、高祖善導大師・宗祖法然上人を二祖といただく私たち浄土宗僧侶が何よりもまず受者に伝えなければいけないのは、阿弥陀仏が具えておられる本願力、すなわち、願往生人が時処諸縁にかかわらず称える本願念仏の声に応じて阿弥陀仏が応えられる凡夫救済のお力の深勝性であり、それについてはどれほど語ろうとも語り尽くせるものではないし、語り過ぎるということもない。そこで次章では、本願力の深勝性を明らかにするため凡入報土の教えの基本的構造について解明したい。