三、三義校量について

3、在縁の義について
次に「在縁の義」についての説示である。
云何んが縁に在る。彼の造罪の人は、自ら妄想の心に依止し、煩悩虚妄の果報の衆生に依りて生じ、此の十念の者は無上の信心に依止し、阿弥陀如来の方便荘厳・真実清浄、無量の功徳名号に依りて生ず。譬えば、人有りて毒箭にあてられ、筋を截り骨を破らんに、滅除薬の鼓を聞けば、即ち箭出で、毒除くが如し。(『首楞厳経』に言わく、「譬えば薬有り、名づけて滅除と曰う、若し闘戦の時、用いて以て鼓に塗れば、鼓の声を聞く者、箭出で、毒を除くが如し。菩薩摩訶薩も、亦復、是くの如し。首楞厳三昧に住するを以て、其の名を聞く者は、三毒の箭、自然に拔出す)豈に彼の箭深く、毒■(はげ)しければ、鼓の音声を聞くとも、箭を抜き、毒を去ること能わずと言うことを得可けんや。是を在縁と名づく。(16)
【現代語訳】第二に「在縁」という視点は次のような意味合いである。すなわち、人が犯す悪業は、自身の虚妄の心に基づいて、煩悩や嘘偽りがもたらす業の報いとしての存在である迷妄の衆生を対象としてなされている。それに対して、この十遍の念仏は、無上の信心に基づいて、他ならぬ覚者阿弥陀仏ご自身の外に現れた妙なるお姿、阿弥陀仏の内なる悟りの境地としての真実やその清浄の巧みな働き、さらには、計り知れない功徳を具えた名号をその対象として修められている。あたかもそれは、毒矢に刺さった人が、負傷した箇所の筋が切れ骨が折れた時に「滅除薬」を塗った鼓の音を聞くと、たちまち矢が抜け出て毒が除かれ傷が癒えるようなものである。『首楞厳三昧経』には「例えば「滅除」と名づけられた薬がある。もし戦闘の時、あらかじめこの薬を鼓に塗っておけば、その鼓の音を聞いた者は、たとえ毒矢に射られようとも矢が抜け出て毒が除かれる。菩薩摩訶薩の境涯もまた同様である。首楞厳三昧の境涯に入って、そのいわれを聞くならば、貪瞋痴の三毒煩悩という矢が自ずから抜け出る」と説かれている。どうして、その矢が深く突き刺さり、その毒が強く激しいからといって、鼓の音を聞くだけでは矢を抜き毒を消し去ることなどできはしないなどと言えようか、いや決してそんなことはないのである。これが「在縁」という視点である。
 大師がこうした毒矢と滅除薬との関係を見出された典拠は、鳩摩羅什訳『首楞厳三昧経』巻上の次の説示である。
大薬王を名づけて滅除と曰う。若し闘戦の時、用いて鼓に塗るを以て、諸の箭に射られ、刀矛に傷めらるるも、鼓の声を聞くことを得て、箭出で毒除くが如し。是くの如し。堅意よ。菩薩の首楞厳三昧に住するや、名を聞く者有れば、貪恚癡の箭、自然に拔出し、諸の邪見の毒、皆悉く除滅し、一切の煩悩、復た発動せず。
(17)
 こうした経説を受けた大師は、たとえ無始の彼方から今に至るまで犯し続けてきた悪業の報いであろうとも、その対象はどこまでも迷妄の衆生に対してなされたものに過ぎないのに対し、十遍の念仏は、他ならぬ「五劫思惟・兆載永劫」の酬因感果の本願成就身たる阿弥陀仏をその対象に据えて修められるものであるから、比較しようもない隔たりがある。だからこそ「滅除薬」の功徳が毒を消し去るように、十遍の念仏の功徳は永劫に積み重ねてきた悪業の報いを除くことができる、と述べられている。このように、われわれが修める業の対象についての根本的な相違点を明らかにされたのが「在縁の義」である。