三、三義校量について
1、『業道経』と『観無量寿経』との説示内容についての疑義
密室道場における口授心伝に対し、第五重の勧誡においては、同じく『往生論註』に説かれる八番問答中の第六「『業道経』と『観無量寿経』における善悪の校量」の中、在心・在縁・在決定の三義校量を説示してゆくことが多い。まず曇鸞大師は次のような問いを設定する。
問うて曰わく。『業道経』に言わく「業道は秤の如し、重き者、先ず牽く」と。『観無量寿経』に言うが如きは「人有りて五逆・十悪を造り、諸の不善を具して、悪道に堕し、多劫を経歴して、無量の苦を受く応し。命終に臨む時、善知識の教えに遇いて、南無無量寿仏と称す。是くの如く至心ありて、声をして絶えざら令め、十念を具足して、便ち安楽浄土に往生を得。即ち、大乗正定の聚に入りて、畢竟じて退せず。三塗の諸の苦と永く隔つ」と。「先ず牽く」の義、理に於いて如何ぞ。又、曠劫より已来た、備(つぶさ)に諸の行を造る。有漏の法は三界に繋属せり。但だ、十念、阿弥陀仏を念ずるを以て、便ち三界を出ずといわば、繋業の義、復た云何んとか欲せん。(9)
【現代語訳】『業道経』には「(善因善果・悪因悪果という)業の道理はあたかも秤のようなもので、それまでの善業・悪業の重きにしたがってその報いを受ける」と説かれている。ところが『観無量寿経』下品下生には「ある人が五逆罪や十悪業を犯し、また、その他さまざまな悪業を重ねれば、その報いとして(地獄・餓鬼・畜生といった)悪道に堕ち、はてしなく永い年月にわたって、計り知ることができないほどの苦しみに苛まれることとなる。しかし、この人は命終に臨んだ時に、善知識の説く教えにめぐり遭って『南無阿弥陀仏』と念仏を称えることができた。まことの心をもって、ただひたすらに声を絶やすことなく十遍の念仏を相続できたならば、ただちにこの人は極楽浄土への往生が叶う。そして、悟りを開くことがまさに定まった者の境涯に仲間入りし、二度と再び迷いの世界へ退転することはない。三悪道のさまざまな苦しみから永久に解き放たれるのである」とある。(この二種の経典を照らし合わせてみた場合)『業道経』に説かれる「それまでの善業・悪業の重きにしたがってその報いを受ける」という業の道理をどのように受け止めるべきなのだろうか。また、はるかな過去から今に至るまでわれわれは、さまざまな業を造り続けてきたが、それらの内の汚れあるものは、みな生死輪廻を繰り返す世界である三界にわれわれ自身を繋ぎ留めるもととなってきた。(そうしたことを考えてみても)わずか十遍、南無阿弥陀仏と念仏を称えるだけで、ただちに三界を離れ出ることができるというのであれば、これまで積み重ねてきた悪業の報いによる三界への繋縛という意味をどう受け止めればよいのであろうか。
ここで大師が引用されている『業道経』とは固有の経典名ではなく、広く業を説く経典、具体的には呉支謙訳『惟日雑難経』の「秤の如く、重きに随って之を得く(10)」、あるいは、後漢安世高訳『道地経』の「譬えば秤の如く一上し一下す。是くの如く死を捨て生の種を受く(11)などと「秤」を通じて業の道理を明かす一連の経典を指していると考えられる。また、浄土教に帰入される以前、大師が専ら修学を積まれた四論の中心的著作である龍樹菩薩造『中論』巻第三「観業品」の中に「是の業に二種有り。重きに随って報を受く(12)などとあることから、大師が業の道理を重んじていたことは明らかである。
また、続く『観無量寿経』の引用は、言うまでもなく、次の下品下生の説示を大師が趣意したものである。
下品下生の者とは、あるいは衆生あって、不善の業たる五逆十悪を作して、諸もろの不善を具す。かくのごとき愚人、悪業をもっての故に、まさに悪道に堕して、多劫を経歴して、苦を受くること窮まりなかるべし。かくのごとき愚人、命終の時に臨んで、善知識の、種種に安慰(あんに)して、為に妙法を説きて、教えて念仏せしむるに遇えり。この人、苦に逼(せ)められて、念仏するに遑(いとま)あらず。善友(ぜんぬ)告げていわく。汝もし念ずること能わずんば、まさに無量寿仏と称すべしと。かくのごとく至心に、声をして絶えざらしめ、十念を具足して、南無阿弥陀仏と称す。仏名を称するが故に、念念の中において、八十億劫の生死の罪を除く、命終の時、金蓮華(これんげ)の、なおし日輪のごとくなるが、その人の前に住するを見る。一念の頃(あいだ)のごときに、すなわち極楽世界に往生することを得。(13)
これら一連の経典の説示を知悉されていた大師は、その内容から誰もが抱くであろう疑義を提示されたのである。すなわち、はるか無始の彼方から計り知れないほどの悪業を積み重ねてきたわれわれ凡夫が、最期臨終の夕べにわずか十遍の念仏を称えただけで浄土往生が叶えられるという『観無量寿経』の説示は、『業道経』が説く因果応報という業の道理と真っ向から対立するのではないか、という疑義である。そして、それに対して大師は、在心・在縁・在決定の三義校量によって回答される。