三、二河白道の譬喩について
 1、『決答授手印疑問抄』の構成

 『決答抄』は、先述した述作縁起を述べた自序が冒頭に据えられ、続けて、やはり既に引用した『授手印』の題号と序文についての各一問答が配される。さらに、『授手印』本文に対する宗義(五種正行・正助二行)と行相(三心・五念門・四修・三種行儀)への「決答」と、奥図・聖光上人行状についての各一問答が施された後、流通の心得である自跋をもって一部を終える。このように『決答抄』は、『授手印』全般にわたる問答が施されるが、林彦明台下は『決答抄』一部を序分・正宗分・流通分の三段、三十一項、七十八問答に分け、併せて正宗分を八節に区分された。 (17) 今、林・深貝両師の所説を基にして『決答抄』の構成図を付し、理解の便をはかりたい。 (18)

『決答授手印疑問抄』構成図
 ※『決答抄』本文にない説示は〔 〕を付している。
 ○数字は、問答数を示す。
〈上巻〉
【第一 序分】  自序―述作縁起―
【第二 正宗分】 問答決疑(三十一項、八十二問答)
 一、本書題号に就て 01 末代念仏授手印事<1>
 二、本書序分に就て 02 上人往生後諍其義於水火(乃至)失念仏之行等事<2>
 三、五種正行事
  1、読誦正行事  03 上人在世之時(乃至)長日三巻誦之給等事<3>
  2、観察正行事  04 依行者之根機行観門之広略(乃至)任行者志等事<4>
  3、礼拝正行事  05 〔上中下三根礼拝〕<5>
           06 住宇治辺有行者等事<6><7>
  4、口称正行事  07 心志往生念口称南無仏等事<8>
           08 一心専念弥陀名号(乃至)順彼仏願故事<9><10><11><12>
           09 付此文有種種之義等事<13><14><15><16><17><18>
  5、助正分別事  10 〔二重問答〕<19><20>

〈下巻〉
 四、三心処
  1、〔至誠心〕   11 以至誠心治虚仮心事<21>~<28>
           12 一向真実心等事<29>
           13 非虚非実心事<30>
           14 又入念仏之後四句事<31>
           15 多実少虚(乃至)若可往生等事<32><33>
           16 多少倶実等事<34><35>
           17 至誠心下三番問答事<36>
  2、〔深心〕   18 以深心治疑心事<37><38><39><40>
           19 一向疑心句下註一分往生事<41>~<46>
           20 始信終疑事<47>
           21 師云深心具足人於吾罪業全以不可疑之等事<48><49><50><51>
           22 於悪煩悩之一法雖疑之於念仏一法更以不可疑事<52>
  3、廻向発願心事 23 〔第三心相貌〕<53>~<62>
           24 上人言浄土宗善導(乃至)称南無阿弥陀仏時具三心等事<63><64><65>
           25 然師云三心中発至誠心之時実具後二心等事<66>
           26 但経与疏文一者二者等置各別已下事<67>
  4、〔横竪三心〕 27 有二種三心一者横三心二者竪三心等事<68>~<75>
 五、〔五念門〕   28 善導御意(乃至)必可修五念門事<76><77>
 六、三種行儀処   29 〔三想用心〕<78><79><80>
 七、〔奥図〕    30 三心五念四修三種行儀各南無阿弥陀仏<61>
 八、〔聖光上人行状〕31 善導寺聖人御房長時御勤竝御臨終次第事<82>
【第三 流通分】 自跋―流通心得―
 以上の八十二問答によって構成されている『決答抄』だが、先述したように第二十一問答から第七十五問答までが三心をめぐる問答であり、問答数のおよそ七割を占めていることが分かり、いかに三心理解の正確さが求められていたかを知ることができる。この中、四重の勧誡において必ず取り上げられるのが、次の第四十四問答である。
問う、何が故に三心具足せる上に、現世の貪欲は強盛に起り、後世の心行はなお弱く、覚えるや。答う、貪瞋は無始串習(むしげんしゅう)の法なり。故に強し。願生は今生に始めて励む心なり。故に弱きなり。他力本願はこの時に当たって、利益を施すなり。二河の釈に吉吉(よくよく)見合わすべきなり。 (19)
 ここにおいて在阿は、たとえ三心を具足したとしても、現世に執着する貪欲の心が次から次へとわき起こるのに対し、浄土往生を願う心が弱々しいのは何故だろうか、と問いを投げかけている。それに対して良忠上人は、貪欲や瞋恚の心ははるか無始の彼方から果てしなく蓄積され続けてきたものであるから強固なのに対し、浄土往生を願う心は今生においてはじめて発した心に過ぎないので、はなはだ脆弱なものである。しかし、阿弥陀仏の他力本願の働きは、たとえそのように微弱なものであろうとも、衆生の願往生心の発露を決して見逃さず、この時とばかりに衆生救済の働きを施されるのである。そうしたありさまは、善導大師の二河白道の譬喩に見事に表現されており、それをよくよくご覧になり、そうした状況と重ね合わせてみなさい、とお答えになっている。
 この問答を依拠として、勧誡は二河白道の譬喩の解説に入る。無論、五重伝法における要偈道場の荘厳が、この二河白道の様相を現出せしめていることは言うまでもない。そこで、節を移し二河白道の譬喩の解説を通じて浄土宗義理解の基本について確認したい。


2、浄土宗義理解の基本
言うまでもないが、ここで良忠上人が指摘されている二河白道の譬喩とは、善導大師『観経疏』「散善義」回向発願心釈中の次の一節である。

  また一切の往生人等に白す。今更に行者の為に、一(ひとつ)の譬喩を説いて、信心を守護して、以て外邪異見(げじゃいけん)の難を防がん。何者かこれなる。譬えば人有って西に向って百千の里を行かんと欲するがごとき、忽然(こつねん)として中路に二河有るを見る。一はこれ火の河、南に在り。二はこれ水の河、北に在り。二河各闊(おのおのひろさ)さ百歩(ひゃくぶ)、各深くして底無く、南北辺り無し。水火の中間(ちゅうげん)に正(あた)って一の白道有り。闊さ四五寸許(ばか)りなるべし。この道、東岸より西岸に至るまで、また長さ百歩。その水の波浪、こもごも過て道を湿し、その火の焔(ほのお)また来って道を焼く。水火相い交わりて、常に休息(や)むこと無し。この人すでに空曠(くうこう)の迥(はる)かなる処に至るに、更に人物(にんもつ)無し。多くの群賊・悪獣有って、この人の単独なるを見て、競い来って殺さんと欲す。この人死を怖れてただちに走って西に向うに、忽然として、この大河を見る。すなわち自ら念言(ねんごん)すらく、この河、南北は辺畔(へんぱん)を見ず。中間に一の白道を見れども極めてこれ狭小なり。二岸相い去ること近しといえども、何に由ってか行くべき。今日定めて死なんこと疑わず。正に到り回(かえ)らんと欲すれば、群賊・悪獣、漸漸に来り逼(せ)む。正に南北に避(さ)り走らんと欲すれば、悪獣・毒虫競い来って我れに向う。まさに西に向って道を尋ねて去(ゆ)かんと欲すれば、また恐くはこの水火の二河に墮せんことを。その時の惶怖(おうふ)また言うべからず。すなわち自ら思念すらく、我れ今回るともまた死なん。住(とど)まるともまた死なん。去るともまた死なん。一種として死を勉(まぬが)れざれば、我れむしろこの道を尋ねて前に向って去かん。すでにこの道有り。必ずまさに渡るべしと。この念を作す時、東岸にたちまち人の勧める声を聞く。仁者(なんじ)、ただ決定してこの道を尋ねて行け。必ず死の難無けん。もし住まらばすなわち死せんと。また西岸の上に人有って喚んで言わく、汝一心正念にしてただちに来たれ。我れ能く汝を護らん。すべて水火の難に墮せんことを畏(おそ)れざれと。この人すでにここに遣(や)りかしこに喚ぶを聞いて、すなわち自ら身心を正当(しょうとう)にして、決定して道を尋ねてただちに進んで疑怯退(ぎこたい)の心を生ぜず。あるいは行くこと一分二分するに、東岸の群賊等(ら)喚んで言わく、仁者回り来たれ。この道険悪にして過ることを得じ。必ず死せんことを疑わず。我れ等すべて悪心をもって相い向うこと無しと。この人喚ぶ声を聞くといえども、また回(かえ)り顧(み)ず。一心にただちに進んで道を念じて行くに、須臾にすなわち西岸に到って、永く諸難を離る。善友(ぜんぬ)相い見て慶楽已(きょうらくや)むこと無し。これはこれ喩(たとえ)なり。 (20)

続けて善導大師は、この二河白道の譬喩に対し、次のような都合十三に及ぶ比喩についての解説を施される。

  次に喩を合せば、<1>「東岸」と言うは、すなわちこの娑婆の火宅に喩う。<2>「西岸」と言うは、すなわち極楽の宝国に喩う。<3>「群賊・悪獣詐(いつわ)り親しむ」と言うは、すなわち衆生の六根・六識・六塵・五陰・四大に喩う。<4>「人無き空迥の沢」と言うは、すなわち常に悪友(あくう)に随って、真の善知識に値(あ)わざるに喩う。<5>「水火の二河」と言うは、すなわち衆生の貪愛は水の如く、瞋憎(しんぞう)は火のごとくなるに喩う。<6>「中間の白道四五寸」と言うは、すなわち衆生の貪瞋煩悩の中に、能く清浄なる願往生の心を生ずるに喩う。すなわち貪瞋強きに由るが故に、すなわち喩うるに水火のごとし。善心微なるが故に、喩うるに白道のごとし。また<7>「水波、常に道を湿す」とは、すなわち愛心常に起って、能く善心(ぜんじん)を染汚(ぜんま)するに喩う。また<8>「火焔、常に道を焼く」とは、すなわち瞋嫌(しんけん)の心、能く功徳の法財を焼くに喩う。<9>「人、道の上を行って、ただちに西に向う」と言うは、すなわち諸の行業を回(え)してただちに西方に向うに喩う。<10>「東岸に人の声あって、勧め遣るを聞いて、道を尋ねてただちに西に進む」と言うは、すなわち釈迦すでに滅したまいて、後の人見ざれども、なほ教法の尋ぬべき有るに喩う。すなわちこれ喩うるに声のごとし。<11>「あるいは行くこと一分、二分するに、群賊等喚び回す」と言うは、すなわち別解・別行・悪見人等、妄(みだ)りに見解(けんげ)を説いて迭(たが)いに相い惑乱し、および自ら罪を造って退失するに喩う。<12>「西岸の上に人有って喚ぶ」と言うは、すなわち弥陀の願意に喩う。<13>「須臾に西岸に到って、善友相い見て喜ぶ」と言うは、すなわち衆生久しく生死に沈んで曠劫に淪廻(りんね)し、迷倒自纏(めいとうじでん)して、解脱するに由し無し。仰いで釈迦発遣して西方に指向せしむることを蒙り、また弥陀、悲心をもって招喚したまうに藉(よ)って、今二尊の意(こころ)に信順して、水火の二河を顧みず、念念遺(わす)るること無く、彼の願力の道に乗じて、命を捨てて已後かの国に生ずることを得、仏と相見(そうけん)せば、慶喜(きょうき)何ぞ極まらんというに喩う。 (21)(文中の○数字は筆者が付したもの)

以上、二河白道の譬喩は、無始以来の煩悩多き私たち凡夫のありのままの姿と浄土往生を願う念仏行者が具えるべき、あるべき信の姿を見事に表現したものであり、だからこそ良忠上人は本書第四十四問答において取り上げられたのである。
 さて、この二河白道の譬喩を通じて、筆者が真っ先に思いを致すのは、そこで説かれる譬喩の多くが相対化されていることである。無論、その相対概念を単純に括れないことは承知しているが、あえてそのいくつかを指摘してみると次のようになろうか。
<10>東岸に人の声あって勧め遣る(釈迦の教法):<12>西岸の上に人有って 喚ぶ(弥陀の願意)
  <2>西岸(極楽):<1>東岸(娑婆)
 <6>白道四五寸(衆生の願往生心=微):<5>水火の二河(衆生の貪瞋煩悩
  =強)
 <9>人、道の上を行きて直に西に向かう(衆生の願往生の姿):<11>群賊等
  喚び回す(別解・別行・悪見人等による惑乱及び願往生心の退失)
 <3>群賊・悪獣(衆生の六根など):<4>人無き空迥の沢(悪友に随い、善
  知識に値わず)
 <7>水波(愛心):<8>火炎(瞋嫌)
 (<13>須臾に西岸に到れば、善友相見えて喜ぶ→)二尊:往生人
 (<4>人無き空迥の沢→)悪友:善知識
 (<5>水火の二河→)衆生の貪愛(水):衆生の瞋憎(火)
 (<7>水波、常に道を湿す→)愛心:善心
 (<8>火炎、常に道を焼く→)瞋嫌:法財
 このように二河白道の譬喩は、多くの相対概念が散りばめられている。無論、今さらこうした事実を指摘するまでもなかろうが、あえて筆者が取り上げた意図は次の点にある。
 つまり、法然上人以前と以後とを問わず、「こうした相対概念を立てる教えは究極の教えではない、レベルが低い」とする非難が後を絶たないからであり、あろうことか、聖道門によるこうした物言いに対し深く吟味もせず、それに呑み込まれ、迎合してしまう者が多いことを危惧するからである。ちなみに聖道門による相対概念に対する批判の一、二を挙げてみよう。まず、『道元和尚広録』において道元は、浄土宗の教えを次のように批判している。

  心の外に仏を求むれば、仏変じて魔と成る。上の如くに楽を欣えば、楽化して苦と為る。浄土・穢土は夢裏の去来なり。覚者、いかでか慕わん。善業・悪業は酔中の理乱なり。醒人未だ行ぜず。憐れむべきかなや。迷を厭いて迷を以てす。泥を以て泥を洗うが如し。愚かなり。仏を懐きて仏を求むるは、水にありて水を求むるに似たり。 (22)

このように道元は、仏と凡夫、浄土と穢土、善業と悪業などと相対化して仏教を論じる浄土宗の教えは、「夢裏の去来・酔中の理乱」であり、「憐れむべき・愚かな」教えと批判している。
 あるいは、『夢中問答』巻下において夢窓疎石は、やはり同様に浄土宗の教えを次のように批判している。

  然れば他力本願をたのみて西方浄土を願ふべしといふ人あり。かやうの人は大乗の法門を学しながら、いまだ大乗の題目をだにしらざる人なり。悪趣の外に浄土をねがひ、自力他力をわかち、難行易行を論ずるは、皆是れ了義大乗の題目にあらず。(中略)無明妄想にばかされて、大乗は難行なり他力をたのむべしといふ人をば、大乗を学した 髏lと申すべからず。しかるを我は大乗の法門を学得したれ共、これは難行なれば念仏の行を修すべしといへるは、誹謗大乗の人なり。大乗の法門をしらねば、ただ念仏の行を修すといはればさもありぬべし。(中略)涅槃、宝積等の経にいはく、仏説の中に了義経と不了義経との二種あり。末代の衆生了義経の説に依りて、不了義の説に依るべからず。凡夫の外に仏あり、穢土の外に浄土ありと説けるは不了義の経なり。凡聖・浄穢皆差別なしと明せるは了義大乗の説なりと云々。此の文のごとくならば、浄土宗には穢土の外に浄土あり、凡夫の外に仏ありと立てられたり。了義大乗の説とは申すべからず。 (23)
夢窓もまた、悪趣(穢土)と浄土、自力と他力、難行と易行、凡夫と仏(聖者)などと相対化して仏教を論じる浄土宗の教えに対し「了義大乗の説とは申すべからず」と批判をしている。
 道元にしても夢窓にしても、彼らが依って立つ禅の教えが、本覚思想に基づく絶対的一元論(不二絶対)の視点に立つ以上、相対化された浄土教を「無明妄想にばかされ」た未了義の教えであるとして批判を展開するのは至極当然である。無論、天台宗の教えにしても真言宗の教えにしても、それらが、その究極的な部分で絶対的一元論を拠り所としている以上、彼らの浄土宗批判の核心は道元や夢窓と何ら異なることはない。つまり、「浄土三部経」に説かれる酬因感果の阿弥陀仏や有相荘厳の極楽浄土をその教学中に取り込んで、唯心浄土・自性弥陀・心仏衆生三法無差別などといった用語によってその本質を曲解したあげく、そうしたありようこそ究極の姿であり、本質であると強弁する結果となるのである。
 しかし、善導大師・法然上人の教学体系が、そうした絶対的一元論をそれこそ絶対的な基盤とはせず、それと対局にある相対的二元論(二而相対)の視点に立っていることは明白である。法然上人は次のようなご法語を遺されている。

  自他宗の学者、宗々所立の義を、各別にこころえずして、自宗の儀に違するをばみなひがごとと心えたるは、いはれなきことなり。宗々みなをのをのたつるところの法門、各別なるうへは、諸宗の法門一同なるべからず、みな自宗の儀に違すべき條は、勿論なりと。 (24)
すなわち、さまざまな宗派においてその教えを学ぶ者が、それぞれの宗派で説く教えは各々一つの体系を持つことを理解せずに、自身の宗派の教えに異なるものはすべて間違いであると理解してしまうのは、正当な根拠を欠いている。各宗派ごとに立てられた教えは、それぞれ個別に体系づけられているのだから、各宗派の教えが同じはずなどない。他の宗派が自身の宗派の教えと異なるのは当然である、と述べられている。
 なるほど、各宗派毎に拠り所とする経典が異なるということは、その教義を構築している世界観がそれぞれ異なるということであり、したがって、その教学体系が異なるのも当然の帰結である。まさに法然上人が指摘されているように宗義は「各別」であり、それを弁えずに「相対的な教えはレベルが低い」などと揶揄するのは「いわれなきこと」なのである。
 つまり、偏依善導一師を旗印にして、法然上人が開宗された浄土宗の教えは、道元や夢窓が指摘しているように、仏と凡夫が隔絶した教えであり、極楽浄土と娑婆世界、聖道門と浄土門、自力と他力、難行道と易行道、本願念仏と雑修雑行などを、ことごとく対極に据えた相対的二元論に立つ教えなのである。いみじくも日蓮が『立正安国論』において「捨閉閣抛」 (25) という述語によって法然上人の教学を批判しているが、往生後の成仏を目指すという真意、仏辺(仏の側からのアプローチ)と機辺(凡夫の側からのアプローチ)の峻別という二方面からの視点を日蓮が見逃してはいるものの、法然上人の教えの方向性を指摘していると読みとることも可能であり、法然上人の思想の結晶である選択思想は、まぎれもなく「選択とは、すなわちこれ(仏による)取捨の義なり」 (26) という教えに他ならない。そして、法然上人の教えが、絶対的救い主である阿弥陀仏と究極の救いの場としての西方極楽浄土とを説く相対的二元論の視点に立った教えであったからこそ、結果として、当時の仏教界の支配的常識であった差別的機根観と差別的世界観を打破することができたとも言えるのである。法然上人の教えが、自力の仏教から他力の仏教へ、智慧の仏教から慈悲の仏教へ、悟りの仏教から救いの仏教へと、その常識を百八十度転回されたと言われる所以は正にここにこそあるのである。 (27)
とはいえ、こうした法然上人の教説を曲解し、絶対的一元論を是とする本覚思想に再び還帰した法然上人門下が多くいたのも事実である。かつて、望月信亨猊下は次のように述べられた。
  法然の門下は多士済済であったが、その中にはもと天台の学徒であったものもあり、また当時比叡山に流行しつつあったいわゆる口伝法門を学習し、それに基づいて新義を唱道したものもあり、ために浄土の宗義は異様なる方面に向かって発展するに至った。中にも幸西、証空および親鸞のごときは共に恵心流の本覚法門の説を承け、衆生往生の行修をもってすべて如来の成就するところとなし、我れらは自ら発心し修行するを要せず、ただ如来の本願成就の謂れを聞き、それを領解すればすなわち往生は了ると説き、これを他力往生と名づけ、しかして法然らのごとく至心信楽して浄土に生ぜんと願じ、多念相続するのをすべて自力の行となし、自力にては真実報土の往生は不可能だとした。これは疑いもなく本覚思想に立脚し、衆生の行修を迹門始覚の法として排斥したのである。(中略)これら(源信著『観心略要集』『菩提集』『真如観』の説示)は我れら衆生を無始本覚の如来となし、我れらは本来三身の徳を具足し、常に妙法心蓮台に住しつつあるも、この理を知らざるが故に生死に流転するのであるから、もし今円頓至極の法を聞き、九界妄想の夢ひとたび醒むれば、即時に無始の極仏が現成するとし、しかしてまた極楽に生ぜんことを求むるものも自身即仏の理を知り、我身すなわち弥陀如来と同体無二なることを知れば、この土に居ながら極楽に生まれることができるというのであって、幸西らの義立がこれに基づいたものであることは明らかとすべきである。けだし本覚法門は従因向果の行修をすべて迹門始覚の法となし、遇教の時即座に平等大会に住すと説き、実践実行を無視するのであるから、天台宗学の伝統的立場からいえば無論異端の説である。これを浄土門に取り入れた結果もまた同様であって、聞信領解を唯一の要件としたところから無修無行の弊風を生じ、また即解即証を建前としたので、浄土往生の法は一変して即身成仏宗となり、のみならず十劫正覚の本願成就の如来は迹門の弥陀としてこれを却け、観経真身観の弥陀は方便化身、九品浄土は方便化土としてこれを貶し、善導、法然らが往生の正因として自らも修し、他にも修せしめた称名念仏の法はこれを自力の行として排斥し、浄土伝統の教旨はために大いに惑乱さるるに至ったのである。また親鸞らが安心業成の後、仏恩報謝の行として、念仏または諸善を修すべきことを説いてきたのは、『枕双紙』に遇教の時すなわち証す、万行万善は果後の方便なり、というのに基づいたものかも知れぬが、本願成就の迹門の弥陀であれば仏恩報謝の義も成り立つけれど、それを本門の弥陀とする時、我れら自身と同体であるから、その名号を唱えることはいわゆる還我頂礼心諸仏で、すなわち我れら自身の本名を喚ぶことになり、報恩の語は無意味とならなければならぬ。とにかく幸西らは本覚思想を基調とし、諸祖の文献およびその行蹟の炳焉たるものあるにかかわらず、すべてそれに対して目を掩い、あるいは文を廻らし訓を転じてもってその義立に付会し、ここに浄土宗義は異様なる発展をみるに至ったのである。 (28)

望月猊下の卓越した慧眼である。本覚思想に翻弄された法然上人門下の主張は「念仏を相続する教えは、阿弥陀仏の本願力を疑っているものである」という選択本願念仏の誤った受け止め方に端を発する。必然的にその流れは行の軽視・信の強調という果てしなき螺旋の渦に巻き込まれ、いつしか行を修める主体ばかりか、信を発す主体までも見失うこととなる。その結果、三心を発す主体を凡夫の側から阿弥陀仏の側へと委ねざるを得ない理論を提唱せざるを得なくなり、最終的に娑婆と浄土、仏と凡夫との隔絶という法然上人が主唱した相対的二元論の世界観をも放棄することとなる。こうした経緯を経て成立した彼らの主張は、詰まるところ、煩悩即菩提・生死即涅槃・娑婆即浄土・絶対他力即絶対自力・念仏即一切行、あるいは、唯心浄土・自性弥陀といった方向性に還帰せざるを得ない。
 しかし、既に法然上人は凡夫が発す信の限界について十二分にご存じで、いくつかのご法語を通じてその周辺の消息を明らかにされている。

 ただしこの三心の中に、至誠心をやうやうにこころえて、ことにまことをいたすことを、かたく申しなすともがらも侍るにや。しからば弥陀の本願の本意にもたがひて、信心はかけぬるにてあるべきなり。いかに信力をいたすといふとも、かかる造悪の凡夫の身の信力にて、ねがひを成就せむほどの信力は、いかでか侍るべき。ただ一向に往生を決定せむずればこそ、本願の不思議にては侍けれ。さやうに信力もふかく、よからむ人のためには、かかるあながちに不思議の本願おこしたまふべきにあらず、この道理おば存じながら、まことしく専修念仏の一行にいる人いみじくありがたきなり。 (29)
このように法然上人は、至誠心を発す主体を阿弥陀仏の側へ委ねかねない見解を強く戒められている。加えて、たとえ私たち凡夫がどれほどに信心の力を注ごうとしても、凡夫の信心に往生という願いを叶わせるほどの力がどうしてあるものか、自ら往生を遂げるほど信心の力が強い者のために阿弥陀仏は本願をお誓いになったわけではない、と述べられている。こうしたご法語からも、凡夫の信力の強弱や堪不によって浄土往生が叶うものではないことは明らかであり、阿弥陀仏のみ名を称える選択本願念仏行にのみ凡夫救済の根拠はあるのである。
 法然上人は次のようにも述べられる。

 問ふて曰く、臨終の一念は百年の業にすぐれたりと申すは、平生の念仏の中に、臨終の一念ほどの念仏をば申しいたし候まじく候やらん。答ふ、三心具足の念仏はおなじ事なり。そのゆへは、観経にいはく、三心を具する者は必ず彼の国に生ずといへり。必の文字あるゆへに臨終の一念とおなじ事也。 (30)

 このように法然上人は、臨終行儀に偏重した当時の風潮を戒めつつ、尋常の念仏と臨終の念仏とに質的な相違のないことを指摘されている。無論、ともすると現代においても、私たち凡夫は、その分際もわきまえず、最期臨終における状況を鑑み、その際の切迫した心境で称えるお念仏を、日常の心境で称えるお念仏よりも功徳があるものと考えがちである。しかし、こうした思い違いも、突き詰めて考えれば、凡夫の信の力が、お念仏、もしくは、浄土往生の何らかの助けになるのではないかという驕りから生じた異解に他ならない。しかし、法然上人がお示しになった選択本願念仏は、どこまでも「ひとりだちをせさせて、すけをささぬ」 (31)  お念仏なのである。無論、法然上人がこうした説示をなし得たのも阿弥陀仏による選択本願の真意を正しく汲み取られたからに他ならない。そして、そういった確信を得られ、凡夫の心の弱さを知り尽くされた法然上人だからこそ、臨終にあたり「正念になるからこそ来迎がある」といった従来の通念を覆し、日々の生活における念仏の相続の結果として「ただの時よくよく申しおきたる念仏によりて、かならず仏は来迎し給ふなり。仏の来たりて現じ給へるを見て、正念には住すと申すべき也」 (32) と「来迎があるからこそ正念になる」といった道理を導き出すことが可能だったのである。  こうした考察の積み重ねとして、法然上人が辿り着いた心境が次のご法語に集約されている。

「あの阿波介も仏たすけ給へとおもひて南無阿弥陀仏と申す。源空も仏たすけ給へとおもひて南無阿弥陀仏とこそ申せ。更に差別なきなり」と仰られければ、「もとより存ずることなれども、宗義の肝心いまさらなるやうに、たうたくおぼえて感涙をもよをしき」とぞかたり給ける。 (33)
「あの阿波介も仏たすけ給へとおもひて南無阿弥陀仏と申す。源空も仏たすけ給へとおもひて南無阿弥陀仏とこそ申せ。更に差別なきなり」と仰られければ、「もとより存ずることなれども、宗義の肝心いまさらなるやうに、たうたくおぼえて感涙をもよをしき」とぞかたり給ける。 (34)  この倶会一処の実現も、これまで考察してきた相対的二元論を基調とする浄土宗の教えだからこそ成立可能なことを確認しておく必要があろう。
 即ち、倶会一処という概念は、現実存在としての私たち一人一人を救おうと修行を積まれ、その結果、私たち凡夫との相対関係である三業相応(決してイコールではない)が叶う阿弥陀仏と、相対関係を成立させるに足る・場・である有相荘厳の浄土とが不可欠な思想である。つまり、阿弥陀仏とA氏、阿弥陀仏とB氏といった相対関係(いってみれば縦の相対関係)が成立するからこそ、A氏とB氏という相対関係(いってみれば横の相対関係)である倶会一処が可能となるのである。そうした浄土は、法・報・応の三土の理解に基づけば報土に他ならず、「浄土三部経」や善導大師の説示に基づけば真土に他ならない。そして、そうした倶会一処が叶う浄土であるからこそ、私たち凡夫が、そこで心おきなく修行を積み、成仏を叶えることができるのである。言い換えれば、A氏・B氏が、そのA氏・B氏の心の働きを具えたままで浄土往生を叶え(個の連続)、だからこそ、倶会一処というA氏とB氏との心と心のふれあいという関係を維持し続けることが叶う(関係の継続)のである。
 一方、絶対的一元論の視点に基づく浄土の理解では、そうした状況が成立することはあり得ない。つまり、A氏・B氏といった相対的認識や相対的関係を成立させることが可能な有相・有念の場は、どこまでも方便の世界であり、二次的・副次的な世界としか捉えられないからである。彼 轤ノとっての究極の浄土とは、A氏・B氏といった個別性が無相・無念化され、A氏がA氏でなくなり、B氏がB氏と認識できなくなる境地まで到達しなければ真実の世界とはいえないのであり、無論、そうした状態は「倶会一処」とは呼び得ないのである。
 以上、良忠上人による『決答抄』撰述の意図、及び、二河白道の譬喩を取り上げ考察を重ねてきた。『決答抄』撰述時の良忠上人の姿勢からは、善導大師・法然上人・聖光上人と嫡々と相伝されてきたお念仏の教えを後の世に正しく付属することの重要性と困難さを目の当たりにすることができる。そして、そうした意趣を汲み取られた先徳方が、尊き勧誡を営々として勤めてこられ、あるいは、要偈道場や密室道場の荘厳が整えられてきたことのありがたさにあらためて感服させられるのである。こうした点を振り返った時、七祖聖冏上人が「機・法・解」を経た五重相伝の綱格中、「ただ一点の疑いも無く」という四重「証」として『決答抄』を位置づけられた教学的由縁も自ずから明らかになってくるのである。