二、『決答授手印疑問抄』撰述の意図について
 1、『決答授手印疑問抄』序文について



 四重伝書である三祖良忠上人撰『決答抄』は、その冒頭に良忠上人による本書述作の自序が述べられている。この縁起は四重の勧誡において必ず取り上げられる内容であり、本書を理解する前提として必要不可欠であることから、いささか長文ではあるが原文を引用してその内容を確認すると共に、若干の解説を試みて良忠上人の思いを確認させていただきたい。
上総周東(かずさすとう)に、在阿弥陀仏という者有り。始めて『念仏授手印』に帰し、念仏門に入って、後に『念仏名義集』に依って、ほぼ往生の意を弁ず。出離の安心は、仰いでこの『集』の義を信ずといえども、然れども他門の人に遇って、僅(わず)かに以て『観経の疏』を聞くに、信と解と相違して、その疑殆(ぎたい)無きに非ず。加之(しかのみならず)、故上人の一門に寄らんと将(す)るに、また鉾楯(むじゅん)有り。これに依って、あるいは蓮華寺に往至して上人の口決(くけつ)を聴き、あるいは石川の里に尋ね行って、上人の意気を訪(とぶら)う。禅勝房の所伝の旨趣は貴しといえども、学問無きが故に、経釈の文義に符号(ふごう)すること能わず。 (5)

 上総国周東(千葉県君津市)の在阿(鏑木九郎胤定)は、聖光上人の『授手印』や『念仏名義集』に導かれて本願念仏の教えに帰依した。しかし、聖光上人のお示しと相違する種々の教えを耳にした。そこで、法然上人と尊いご縁を結ばれた蓮華寺の禅勝房や石川禅門(渋谷七郎道遍)に上人の正しい教えを尋ねた。その中、禅勝房が伝え聞いたという上人のみ教えはまことに尊いものであったが、経典や釈書にその典拠を求めることが叶わなかった、というのである。(前掲引用文趣意)
 続けて良忠上人は、道遍の言葉をお示しになる。

 禅門示して云う、「予(わ)れはこれ平氏の子胤(しいん)、秩父の一門なり。故左衛門督家時(さえもんのかみえとき)の恩顧に預かるべきの一分なり。然るに、生年二十五の時、出家して、上人を師として事(つか)えて数年を歴(へ)たり。発心の因縁をいえば、幼少の時、沙弥蓮生の念仏せるを聞いて、早く帰依の想いを起してより已来(このかた)、窃(ひそ)かに遁世の秘計を回らす。また上人の門人安楽房、鎌倉に下って、人を勧化(かんげ)して後、都に帰り上らんと欲す、予れ請(しょう)して云う、暫(しばら)く逗留(とうりゅう)有って、教化を蒙らんは望む所なりと。云云。すなわち念仏往生の道理を教えらる。時に、石垣の金光房、領所の沙汰の為に、鎌倉において訴訟を致す。この人、学者たるに依って、またこれを請して同聞衆(どうもんしゅう)と為すに、領解しならびに聞き書きす。等同にこの人を誂(あつら)う。この人これを聞いて、たちまち以て発心し、世間の訴訟を捨て、すなわち安楽房に付いて、永く上人の門徒と成り畢んぬ。その後、予れ玄冬の臘月に国を出で、初春の望日に戒を受く。心は痴鈍なりといえども、身は常随たり。この故に、三心念仏の義、曲しく訓化を蒙ること、歳月すでに久し。然るに上人鶴林(かくりん)の後、年来浄土の学者に遇うといえども、その詞は一字も先聞(せんもん)に似ず。所謂、昔、宇都宮の禅門に誘引せられて、一日、善恵(ぜんね)上人の三心の義を聞くに、一字一言も相伝の義に非ず。予れ憚(はばか)りながら、昔の聞きを述ぶるの間、学徒の中に一人、この言を依用して、本文を料簡するに符合せしめ畢んぬ。ここに能化、攀縁(はんえん)して、彼の人を追い立て畢んぬ。およそ古今水火し、師資雲泥なり。いかでか相伝と云わん。また長楽寺の律師、四十八日の別時を修して、十六段の奧旨を講ず。すなわち愚身を以てその証誠と為す。然れどもしかも、上人の意に非ざるが故に、証誠すること能わず。黙して去り畢んぬ。彼れは学徒なり。これは愚昧なり。もし相伝ならば、あに愚を以て証とせんや。委(くわ)しくこれを伝えられざる条、かたがた掲焉(けつえん)なり。これ等の人は、上人の義を知らざること、尤も道理なり。上人、念仏七萬返を成じたまいて後は、法門談義を停(とど)めらる。然るにこれ等の人々は、あるいはその時は幼少なり。あるいはその後の門人なればなり。聖光房の上人は、故上人、盛んにこの宗を弘めたまう時、専ら浄土の法門を聞かるる。これすなわち、かつは一山の学侶たり。かつは道心堅固たれば、かたがた伝法、他に異なり、切切教訓(せつせつきょうくん)を蒙られし人なり。彼の遁世の稽古は、愚身より前、三、四年なり。上人、在世の昔は常に以て謁(え)し奉りし。その後は、多歳対面相い隔つ、胡と越とのごとし。人は西に往きて永く亡じ、我れは東に来って暫く存す。その行儀ならびに臨終の事を知らざる事、尤も以て遺恨なり」。 (6)

 「私道遍は、宇都宮の実信房蓮生や安楽房遵西、石垣の金光房との仏縁を通じて本願念仏の教えに帰依し、久しく『三心(具足の本願)念仏の義』について詳しく学んだ。しかし、法然上人が遷化されてからこの数年間、浄土教者を自称するさまざまな学者に会ってはみたものの、彼らの説くところは法然上人のみ教えとは似ても似つかなかった。ある時は、善恵房証空上人の『三心の義(三心理解)』を聞いてはみたものの、一字一句さえ法然上人から伝えられた教えと同じではなかった。はたしてこれで相伝と言えるのだろうか。またある時は、長楽寺の隆寛律師による『選択集』の講義を聞いてはみたものの、これもまた法然上人の意に沿うものとはいえなかった。とはいえ、こうした方々が、法然上人のお示しを知らなかったのも道理である。というのも、法然上人は日課念仏を七万遍にされてから、法門の談議を止められていた。しかし、こうした方々は、法然上人が盛んに法門を談議されていた頃には、ある方は幼少であったり、ある方はその後の入門であったからである。それに対して聖光上人は、法然上人が本願念仏の教えを盛んにお広めになっていた時にお弟子になられ、加えて、油山の学頭として一代仏教への見識も深く、また、道を求める志も固かったことから、他者と異なり、法然上人から懇切丁寧に念仏の法門を伝えられた方である。聖光上人と私道遍とは、法然上人ご在世時には、常に親しくお会いしていたが、聖光上人は鎮西の地へ、私は関東の地へと遠く隔たってしまい、その後の聖光上人の行実やご臨終のありさまを存じ上げないのは、はなはだ残念である」と。(前掲引用文趣意)

 次に良忠上人は、在阿と道遍とのやりとりをお示しになる。
時に在阿、この言(ごん)を聴いて、悦喜(えっき)、身に余り、すなわち彼の上人の義を標(あらわ)さんが為に、すなわち『名義集』の趣を語る。禅門の云く、「年来はこの義を聞かず。今、沙門の言う所、全く昔の聞きに同じ。善導寺の所伝、いかでか上人の指帰に違わんや。随喜尤も深し。昔、親盛(ちかもり)法師、予れに語(つ)げて云く、上人在世の時、問い奉って云く、御往生の後は、浄土の法門、不審をば誰人にか問うべきやと。上人答えて云く、聖光房と金光房とは委しく所存を知れり。彼等は遠国の能化たれば、汝の為に易からず。京中には聖覚法印、また我が義を知れり。もし滅後に疑い有らば、この人に問うべしと。云云。宜(むべ)なるかなや上人の遺言、実(まこと)なるかなや相伝の違わざること。沙門、早く彼の門人に随って、その不審を開くべし。敬蓮社、暫く鎌倉に住するの時、知らずして黙止し畢んぬ。今、然阿弥陀仏、下総(しもうさ)に住せしむと聞く。彼の人はまた上人の門徒なり。予れ対面の志し有りといえども、老耄(もうろう)、窮屈なる間、彼の国に至ること能わず。すなわち沙門の伝説(でんぜつ)を以て、亀鏡(きけい)に備えんと欲す」。云云。 (7)
こうした道遍の述懐を聞いた在阿は、歓喜の思いが身にしみわたり、自身が本願念仏に導かれた『念仏名義集』の趣旨を語った。それに対して道遍は、次のように述べられた。
「今、あなたが述べた意趣は、かつて私が法然上人の膝下にあってお伝えいただいた内容とまったく同じである。聖光上人に伝えられた教えが、どうして法然上人のみ教えに違うことがあろうか、決してそんなことはない。そうした経緯は、まことに喜ばしいことである。かつて親盛法師は、私道遍に次のような法然上人との問答を語られた。『私親盛は、法然上人が往生された後、お念仏の教えに関する不審をどなたに尋ねればよろしいでしょうか、と質問した。それに対して法然上人は、聖光・金光両上人が委細にお念仏の教えを熟知している。とはいえ、彼ら二人は、遠国の方であるから、そなたにとってはいささかお会いするのが難しかろう。ここ京洛では、聖覚法印がまた私の教えを理解している。もし、私の滅後にお念仏の教えについて疑いが発ったならば、この人に尋ねるとよろしい、とお答えになった』。こうした法然上人のお示しが真実でなかろうはずはなく、法然上人から聖光上人へと相伝された教えに相違があるはずもない。そなたは、一刻も早く聖光上人の門弟を訪ね、不審を開陳されなさい。今、下総におられる良忠上人こそは、聖光上人の直弟子である。私も、良忠上人にお会いしたいのはやまやまだが、齢を重ねて、身体が思うにまかせず、下総まで参ることはできない。そこで、そなたが良忠上人から伝えられたお言葉をわが模範にさせていただきたい」と。(前掲引用文趣意)
 以上のような道遍と在阿とのやりとりを紹介した良忠上人は、自身の思いを次のように語る。

 然る間、去(い)にし正月十七日に、在阿、草庵に尋ね来り、手に『手印』の疑問を掲(かか)げ、口に口伝の決答を請す。然阿、齡(よわい)六旬に逼(せま)り、目闇く手振るう。然りといえども、来問の志しを感じ、利生の多きを思い、余寒の風を凌ぎ、頽齡(たいれい)の筆を走らせ、先聞の趣を載せて、後輩の疑いに答え畢んぬ。かくのごときの間、書、両巻を成ず。日は三旬に及べり。在阿、疑いを決して帰り畢んぬ。ただし、識用(しきよう)、闇短(あんたん)にして、相伝、忘るるがごとし。恣(ほしいまま)に是非を決すること、その憚り少なからず。今、夢の告げを憑み、また師の寄せるを憶(おも)って、憖(なまじい)に以て、これを記すのみ。 (8)

 昔、嘉禎(かてい)三年七月六日、上人、善導寺の塔に在して、聖護房を遣わして、愚昧を召して、付属して云く、「我が義、汝に付す。汝、来世に伝うべし。故上人の門徒の中に愚人多く、上人の御義を黷(けが)す。予が門人もまた爾るべし。学生に非ざるよりは、師の説を伝え難き故なり」と。その外(ほか)、諸人に向かうごとに、愚昧を指して、人に示して云く、「弁阿亡じての後は、法門の事は然阿に問わるべし。然阿はこれ、弁阿がこれ盛年に成れるなり」と。また筑後国に、要阿弥陀仏という者(ひと)有り。日中に眠って夢みる。清水の華台房(けだいぼう)、来って云く、「善導寺の上人、示して云く、文をば諸仏の教意に見入って、義をば極悪の罪人も往生する様に言うべきなりと。この言は心に係りて、殊に貴く覚ゆるなり。云云。また善導寺の上人、光臨有り。要阿が、前の言を述べるに、すなわち、上人答えて云く、この言、実に爾なりと。また云く、今度の談義は、余りに委悉(いしつ)なりしの間、僻事(ひがこと)、自ら相い交わらん。然りといえども、発起の衆(然阿)、器量の人たるの間、後日にこれを書き直さるべし」と。云云。然るに要阿、夢覚めて、即時に筆を染めて、この夢を自房の柱に書き付けて後、略抄物を然阿に請う。いまだその本意(ほい)を遂げざる条、懈怠のはなはだしきなり。然ればすなわち、予が所存、善導寺の上人の意趣に違すべからざるか。これに依って、今、憚りながら筆を染むるのみ。時に、康元二年二月十八日記す。 (9)

かつて嘉禎三(一二三七)年七月六日、聖光上人が善導寺におられた時、私良忠を召されて「わが教えは、すべてそなたに付法した。そなたは、これを後の世に伝えねばならない。わが師法然上人の門徒には愚人が多く、その教えを汚している。わが門人もまたそうである。彼らは一代仏教の全体的な構造をしっかりと学び尽くしていないので、師の説を伝えることが困難なのである」と述べられ、正しい念仏法門を私良忠が相伝していくべきことを付属された。あるいはまた、諸人に向かうたびに私良忠を指して「私聖光が亡くなった後は、念仏の教えはこの良忠に尋ねなさい。良忠は、私が盛年に返ったように一代仏教の教えに明るく、念仏の教えも熟知している」と仰った。また、筑後国の要阿弥陀仏の夢の中では、次のような要阿弥陀仏と華台房、要阿弥陀仏と聖光上人とのやりとりがあった。「華台房が現れて言うには『聖光上人は、諸仏のみ教えの肝要を経説の文に見出し、いかなる罪人も極楽浄土に往生が叶うというお念仏の教えを説くべきであると仰った。私華台房は、この聖光上人のお言葉をいつも心に忘れることなく、ことに貴くいただいていた』と。また、聖光上人が、私要阿弥陀仏のもとに光臨されたので、私は、華台房が語った聖光上人の説示を申し述べると、聖光上人は『まことにその通りである。また、こたびの談義は、実に詳細に及んだので、知らぬ間に誤りが含まれているかも知れない。しかし、この談義の発起である良忠は、まことに学徳高い者で、後日、必ずやその誤りを書き直すであろう』と仰った」と。夢から覚めた要阿弥陀仏は、ただちにこの夢を自房の柱に書き付けて、聖光上人から相承された教えの肝要を記した書を私良忠に請われた。いまだその要請に回答ができていないのは、ひとえに私自身の懈怠の故に他ならない。こうした師のお言葉や夢のお告げから、わが所存が、師である聖光上人の意趣に違うはずはない。そこで、今、私は憚りながらも筆を染めてこの『決答抄』を記したのである。時に、康元二年二月十八日である。(前掲引用文趣意)

 長文に及んだが、以上が『決答抄』序文の概要である。序文中に記される康元二年は、良忠上人が五十九歳の時にあたり、およそ一カ月に及ぶ在阿と良忠上人との問答を記したものが本書である。この序文からは、四重の勧誡において、詳細に語られる在阿の求法の姿、すなわち、お念仏の正しい相伝を求めんとする在阿の崇高な志が手に取るように感じられる。その一方、そうした在阿の志になんとかして答えんとする良忠上人の弘法の姿も重なり合って浮かび上がってくる。とりわけ、念仏法門を説く側である私たち浄土宗僧侶が思いを致さなければならないのは、宗祖法然上人・師聖光上人と相伝したお念仏のみ教えを誤りなく後世の者に伝えなければならないという良忠上人のなみなみならぬ使命感であり、揺るがぬ決意ではなかろうか。

 2、良忠上人の決意
そうした良忠上人の確固とした決意は、師聖光上人自らの「故上人の門徒の中に愚人多く、上人の御義を黷す。予が門人もまた爾るべし。学生に非ざるよりは、師の説を伝え難き故なり」という厳しい述懐をあえて示していることからも察せられる。聖光上人は、法然上人門下・聖光上人門下は実に多士済々ではあるものの、ともすると、その多くが自身の独善的理解で念仏法門を解釈してしまうきらいがあることをいたく危惧されていた。すなわち、聖光上人の眼には、一代仏教の構造と聖道浄土二門判を踏まえ、法然上人が偏依善導一師と主唱された真意を熟知した上で、指方立相・西方十万億仏土の極楽浄土への往生乃至倶会一処とそこでの成仏、五劫思惟・長載永劫・本願成就・十劫正覚の阿弥陀仏、選択本願・三仏同心の称名念仏を根幹に据えた浄土宗義の体系を誤りなく相承している者があまりにも少ないと映ったのであろう。  聖光上人によるこうした見解は、一昨年の拙稿 (10) において言及した『授手印』における聖光上人の姿勢からもうかがうことができる。すなわち、聖光上人は『授手印』「序文」において「然りといえども、(法然)上人往生の後には、その義を水火に諍い、その論を蘭菊に致して、還って念仏の行を失って、空しく浄土の業を廃す。悲しきかなや、悲しきかなや。何が為ん、何が為ん(中略)この間において、徒らに称名の行を失することを悩き、空しく正行の勤めを廃しぬることを悲しんで、かつうは然師報恩の為、念仏興隆の為に、弟子が昔の聞に任せ、沙門が相伝に依って、これを録して、留めて向後(きょうこう)に贈る」 (11) と述べられ、宗祖門下における念仏相続を軽視する異義の興盛を悲しんでおられ、また、『授手印』「裏書」においては「然るに近代の人人、学文を先と為して、その称名をば物の員(かず)にせず。これすなわち邪義なり。邪執なり。無道心の人なり。無後世心なり。(中略)已上の三義、これ邪義なり。必ず必ず全く、これ法然上人の義には非ず。梵釈四王を以て証と仰ぎ奉る。三義ともに学文を為さざるの無智の僧達の愚案なり。慢慢なり。善導の御釈に相応せざるの義なり。心有る人、能く能く善導の御釈を見て思うべし。今現文の義を捨て無文の義を出せり。すでに現文に違し、また古の行にも背く有り」 (12) と述べられ、一念義・西山義・寂光土往生義の三義に対し、念仏相続を軽んじる「邪義・邪執」であると強く戒めておられる。だからこそ聖光上人は、『授手印』において、こうした三派の教義に対抗すべく、法然上人の遺文にも見出せない「宗義・行相」という区分をあえて創設され、念仏相続の重要性を強く主張されたのである。
 さて、こうした聖光上人の姿勢を良忠上人が継承されていることは言うまでもない。すなわち、『決答抄』序文の中で良忠上人は、在阿を通じた伝聞とはいえ、「善恵(証空)上人」や「長楽寺の(隆寛)律師」の理解に対し、「一字一言も相伝の義に非ず」「上人の意に非ざる」などと述べ、「いかでか相伝と云わん」と強い疑義を呈されている。このように聖光・良忠両上人と証空上人等の間には、深い溝が横たわっていたのである。  こうした両者を隔てる溝は、『授手印』題号についての問答である「末代念仏授手印の事」や『授手印』序文についての問答である「上人往生の後、その義を水火に諍い(乃至)念仏の行を失う等の事」における良忠上人による回答からも伺うことができる。すなわち、前者において良忠上人は、在阿との間で次のような問答を交わされている。

  問う、題号の心、如何が意得(こころう)べく候らん。答う、この事は先師に問い奉り候うなり。すなわち上人、答えて宣(のたま)わく、「故上人、御在世の時は、仰いで本願を信じて、数遍(すへん)を積むべきの由、教化せしめたまうの間、万人一帰(ばんにんいっき)して、数遍を事と為しき。然るに上人御往生の後、一念義と云う事、繁昌せしより已来、小坂の弘願義(ぐがんぎ)、世に興るに至って、人、皆、先師の御遺誡に背き、多くは念仏の行を廃す。然るに弁阿、先師の御教訓を守って、毎日六萬遍、畢命(ひつみょう)を期(ご)と為す。この故に、当世の解行(げぎょう)、昔に似ざることを哀しんで、多念・数遍を勧めんが為の故に、手印を以て、証験(しょうげん)と為して、記し置く所なり」と。故に、上人の滅後を指して、末代と云うなり。 (13)
このように良忠上人は、聖光上人のご法語を依拠として『授手印』題号についての回答を施すのだが、ここで聖光上人は「数遍を積むべき」ことが法然上人の教えであった筈なのに、「一念義」や「小坂の弘願義」が「先師(法然上人)の御遺誡に背き、多くは念仏の行を廃す」結果となっていることをいたく哀しまれている。だからこそ、法然上人滅後が「末代」であり、聖光上人は『授手印』をまとめたのだとお答えになったと回答されている。続けて良忠上人は、次の逸話を紹介される。

  近比(ちかごろ)、彦山(ひこさん)に住侶有り。心中に念仏者に成らんと思い、誰をか師とすべき、西山をや師とすべきか、善導寺をや師と為すべきと慮(おもんぱか)って、かくのごとく思惟せしめるの処、夢に感ず。高僧来って示して云く、「善恵房の義は虚空に面形(おもてあらわ)したる様なり。聖光房の製作の『授手印』は末代に光を放つべき書なり」と。云云。これに依って件(くだん)の僧、善導寺に来詣し、本意を遂げ、帰り畢んぬ。この故に、この『手印』は、末代悪世の指南、念仏往生の目足なり。尤(もっと)も以て珍重すべし。 (14)

ここで良忠上人は、念仏行者を目指し、西山(証空)上人か、善導寺(聖光)上人か、いずれを師とすべきか悩んでいた彦山の僧侶の夢告を取り上げる。夢の中で現れた高僧は、証空上人の教えは「虚空に面形したる様」に過ぎないのに対し、聖光上人の『授手印』は「末代に光を放つべき書」であると賞賛し、その結果、僧侶は聖光上人を師としたというのである。

 また、続く後者においても、これとほぼ同趣旨の次の問答が交わされる。
問う(中略)然るに念仏行を失うと云うこと、如何が意得べく候うらん。答う、まず「失念仏行」と云うは、一念義・弘願義を立てる輩、数遍を廃す。この義を痛んで『授手印』を作るなりと申され候う。次に相伝の条は、「近代興盛(こうじょう)の義、ともに全く先師の御義には非ず。而るに相伝と号する事は、一向虚言なり」と先師は申され候うなり。 (15)

 ここでも良忠上人は「念仏行を失う」「数遍を廃す」教えとして「一念義・弘願義を立てる輩」を名指しし、師聖光上人はこうした教えに対し「全く先師の御義には非ず」と強い口調で戒め、さらに「(彼らが)相伝と号する事は、一向虚言なり」と厳しい姿勢で望んでいたことを明らかにしている。
 このように、本書において良忠上人は、師聖光上人の言説を依拠として、一念義や弘願義の教えに対し、法然上人の教えから逸脱し、数遍の念仏を廃す教えであると主張している。序文の内容やこれら一連の問答、加えて、先述した『決答抄』序文の中にある「善恵上人の三心の義」といった端的な表現によっても明らかなように、三心理解の根本的な相違が聖光・良忠両上人と証空上人等を隔てる決定的な要因となっていることに疑う余地はなかろう。
 すでにこうした点についても、昨年の拙稿 (16) において言及したので詳説することは控えるが、その概要は次のようなものである。すなわち、三重伝書『領解抄』において良忠上人が、師聖光上人による三心の四句分別の姿勢を継承し、十六種に及ぶ詳細かつ綿密な三心の四句分別を説示された意図は、本覚思想に立脚して法然上人の教えを曲解し、その必然的な結果として三心を発す主体を仏の側に求めようとした法然上人門下の異義に対し、三心はどこまでも衆生の側(機辺)が発し具えるべき心であって、仏の側(仏辺)にそれを求めるべきものではないことを明かさんがためであり、こうした良忠上人の姿勢は、善導大師・法然上人・聖光上人の三心理解の基本を忠実に継承している、というものである。
 ちなみに、次節で述べる『決答抄』の構成において、もっとも問答数が多く、もっとも紙面を割いているのが他ならぬ三心を取り上げた箇所であり、そこに説かれる良忠上人の姿勢もまた『領解抄』の姿勢を忠実に踏襲していることは言うまでもない。こうした事実は、法然上人の他の門弟と接触した在阿がもっとも疑問を抱いた点が三心の異解であり、良忠上人がもっとも意を注がねばならなかった点もやはり三心の正しい弘伝であったことを裏付けていよう。
 以上、良忠上人による四重伝書『決答抄』撰述の意図は、念仏相続を軽視する法然上人門下の異義・異説に対し、宗祖法然上人・師聖光上人と相伝したお念仏のみ教えを誤りなく後世の者に伝えなければならないという使命感からであった。念仏法門を説く側である私たち浄土宗僧侶は、こうした良忠上人の揺るがぬ決意をしっかりと受けとめた上で布教に赴く姿勢を堅持せねばならないのである。