四、法然上人の三心理解

 振り返るに、法然上人ご存命中から「煩悩具足の凡夫である私たちには至誠心など発せようはずがない」などといった異解が門下の中にあらわれている。そうした理解に対して法然上人は「ただしこの三心の中に、至誠心をやうやうにこころえて、ことにまことをいたすことを、かたく申しなすともがらも侍るにや。しからば弥陀の本願の本意にもたがひて、信心はかけぬるにてあるべきなり。いかに信力をいたすといふとも、かかる造悪の凡夫の身の信力にて、ねがひを成就せむほどの信力は、いかでか侍るべき。ただ一向に往生を決定せむずればこそ、本願の不思議にては侍けれ。さやうに信力もふかく、よからむ人のためには、かかるあながちに不思議の本願おこしたまふべきにあらず、この道理おば存じながら、まことしく専修念仏の一行にいる人いみじくありがたきなり」(現代語訳=三心のうち、至誠心をさまざまに理解して「〈私たちは凡夫であるから〉真実の心を発すことなどなおさらできようはずもない」と申す輩などおりましょうか。もしそうであるなら、そうした人は阿弥陀さまの本願の御意を履き違え、信心が欠けてしまっているに違いありません。たとえ私たちがどれほどに信心の力を注ごうとしても、私どものような悪業を造ってきた凡夫の信心に、往生という願いを叶わせるほどの力が、どうしてあるものでしょうか。ただひたすらに往生の願いを揺るぎなくするからこそ、阿弥陀さまの本願は私たちの理解を超えてもたらされるのです。自ら往生を遂げるほど信心の力が深く、徳も高いであろう人のために、阿弥陀さまがわざわざ私たちの理解を越えた本願をお誓いになるはずもございません。こうした道理をよく心得て、ただひたすらにお念仏一行を修める教えに心から帰入する人はたいへん尊い方です)(24)と厳しく戒められている。
 こうしたご法語を拝読するにつけ、お念仏の教えに出会うまでの法然上人のご遍歴に思いを馳せ、私たち凡夫の現実のありさまをしっかりと見つめられた上人の深い洞察にあらためて感服させられる。いったい、法然上人のご遍歴の出発点はどこにあるのだろうか。それはすなわち、上人以前、比叡山を中心に隆盛であった仏教各宗派の教えであり、その説示方法こそ異なれ「本来、私たち衆生は仏そのものである(さまざまな議論があることを承知の上で、ここでは広い意味での「本覚思想」と呼ばせていただく)」という理念・観念にこそ遡るであろう。ところが上人は、本来具わっているはずの仏の心がまったく働かない私たち凡夫の現実のありさまを決して見逃さず、そんな私たちでも救われる道を求められ、ついにお念仏の教えに辿り着かれたのである。
 仮に、法然上人が戒められている理解、すなわち、至誠心をはじめとする三心を仏の側に求める理論を構築し得たとしても、どこまでも凡夫に過ぎない自身の内にそれが具わったことをどうすれば知ることができるのだろうか、あるいは、阿弥陀さまからこの上なく清浄な心を賜っているにもかかわらず、どうして喜怒哀楽に揺れ動くわが心が厳として存在し続けるのであろうか。もちろん、こうした疑念に対しても、それこそ理念・観念で応じられるのであろう。しかし、もしそうであるならば、至誠心とはなんと難しい心であり、とても私のような凡夫の往生など望むべくもない。
 さらに法然上人は「阿弥陀仏は、一念となふるに一度の往生にあてがひておこし給へる本願也。かるがゆへに十念は十度むまるる功徳也。一向専修の念仏者になる日よりして、臨終の時にいたるまで申たる一期の念仏をとりあつめて、一度の往生はかならずする事也」(現代語訳=阿弥陀さまは、わずか一遍、お念仏をとなえれば、その中に一度の往生が叶う功徳を込めて本願をお建てになりました。ですから、十遍お念仏をとなえれば十回の往生が叶うほどの功徳があるのです。それほど貴いお念仏であることを心得て、ひたすらお念仏をとなえる身となったその日から、命尽きるその時までとなえた一生涯にわたるお念仏の功徳をとり集めて、ただ一度の往生は必ず遂げられるのです)(25)とも述べられている。
 およそ「死」の訪れは、どんな方にとっても予測不可能なことである。それこそ諸行無常の世の中であるから、私たちを取り巻く環境も、私たちの身や心のありさまも時々刻々移り変わって行く。そうしたあたり前の現実を十二分にご存じだったからこそ法然上人は、このご法語のように未来のある一点に必ず訪れる「ただ一度の〈この私〉の死」を迎えるその瞬間まで願往生の心と本願念仏とを決して手放さないようにと訴えられたのである。
 ところが、上人門下の中には「ただ一遍念仏をとなえた時点で既に往生は決定している」「阿弥陀仏が悟りを開かれた時点で既に往生は決定している」などと、どこまでも「死」を理念的・観念的に、いってみれば未来の「死」を先取りした現在完了・過去完了で語ってしまう者があらわれ、あげくのはてには「臨終の時まで念仏を相続すべきという考えは、阿弥陀仏の本願力を疑っており、自力の思いが抜けきれない不徹底な教えだ!」などという非難も公然と語られるようになった。なるほど、こうした理念的・観念的な言い回しは、複雑な現実世界や人間のありのままの姿を表面的にしか捉えられず、ましてや「ただ一度の〈この私〉の死」を真摯に見据えようとしない方にはうってつけなのかも知れない。
 しかし、やはりこのご法語にあるように「わずか一遍のお念仏でも往生がかなう」と提唱され、説き続けられたのは他ならぬ法然上人その人であって、その上人が阿弥陀さまの本願力を疑うはずもない。疑うべきは、決して阿弥陀さまの側(仏辺)ではなく、時々刻々移ろいゆくこの現実世界に生き、それに応じて「軽毛」のごとく揺れ動く心を具えた私たち人間の側(機辺)にこそある。法然上人にとって、今を生きる「〈この私〉の死」は、決して理念的・観念的なものではなく、未来の一点を見据えた真剣勝負の場に他ならない。だからこそ法然上人は「ただ一度の〈この私〉の死」にあたり「ただ一度の〈この私〉の往生」を必ずや遂げられるようにと念仏相続の必要性を終生訴えられたのである。
 ここで、いささか長文ではあるが、本稿理解の上で不可欠な要素なので望月信亨猊下のお言葉を引用しておきたい。「法然の門下は多士済済であったが、その中にはもと天台の学徒であったものもあり、また当時比叡山に流行しつつあったいわゆる口伝法門を学習し、それに基づいて新義を唱道したものもあり、ために浄土の宗義は異様なる方面に向かって発展するに至った。中にも幸西、証空および親鸞のごときは共に恵心流の本覚法門の説を承け、衆生往生の行修をもってすべて如来の成就するところとなし、我れらは自ら発心し修行するを要せず、ただ如来の本願成就の謂れを聞き、それを領解すればすなわち往生は了ると説き、これを他力往生と名づけ、しかして法然らのごとく至心信楽して浄土に生ぜんと願じ、多念相続するのをすべて自力の行となし、自力にては真実報土の往生は不可能だとした。これは疑いもなく本覚思想に立脚し、衆生の行修を迹門始覚の法として排斥したのである(中略)けだし本覚法門は従因向果の行修をすべて迹門始覚の法となし、遇教の時即座に平等大会に住すと説き、実践実行を無視するのであるから、天台宗学の伝統的立場からいえば無論異端の説である。これを浄土門に取り入れた結果もまた同様であって、聞信領解を唯一の要件としたところから無修無行の弊風を生じ、また即解即証を建前としたので、浄土往生の法は一変して即身成仏宗となり、のみならず十劫正覚の本願成就の如来は迹門の弥陀としてこれを却け、観経真身観の弥陀は方便化身、九品浄土は方便化土としてこれを貶し、善導、法然らが往生の正因として自らも修し、他にも修せしめた称名念仏の法はこれを自力の行として排斥し、浄土伝統の教旨はために大いに惑乱さるるに至ったのである。また親鸞らが安心業成の後、仏恩報謝の行として、念仏または諸善を修すべきことを説いてきたのは、『枕双紙』に遇教の時すなわち証す、万行万善は果後の方便なり、というのに基づいたものかも知れぬが、本願成就の迹門の弥陀であれば仏恩報謝の義も成り立つけれど、それを本門の弥陀とする時、我れら自身と同体であるから、その名号を唱えることはいわゆる還我頂礼心諸仏で、すなわち我れら自身の本名を喚ぶことになり、報恩の語は無意味とならなければならぬ。とにかく幸西らは本覚思想を基調とし、諸祖の文献およびその行蹟の炳焉(へいえん)たるものあるにかかわらず、すべてそれに対して目を掩い、あるいは文を廻らし訓を転じてもってその義立に付会し、ここに浄土宗義は異様なる発展をみるに至ったのである」。(26)
 以上のような望月猊下の指摘を一つの起点として展開されてきた近年の本覚思想研究隆盛の中、中世史研究の第一人者である大阪大学教授平雅之氏は近著『親鸞とその時代』において次のように述べられている。「さて…、親鸞は従来のような『善い人』『悪い人』に代えて、独特の善人悪人概念を創出しました。そして信心の必要性を強調して、信心をもっていない人々に『仏智疑惑の罪』があると指弾しました。しかし他方では、この信心は如来から賜ったものであるはずです。阿弥陀仏はなぜその信心を『他力の悪人』にだけ与えて、『疑心の善人』には付与しなかったのでしょうか。弾圧という苛酷な運命を、なぜ阿弥陀仏は『他力の悪人』に背負わせようとなさるのか。『疑心の善人』たちは何ゆえに『七宝の獄』に閉じこめられなければならないのか。もしも阿弥陀仏の慈悲が絶対的なものであるならば、『疑心の善人』の存在自体が不可解ではないか。信心なき人々はなぜ存在するのか。いや、そもそも信心なるものに意味があるのか。機の深信は自力ではないのか。むしろ信心や主体性などといった自力のさかしらを超えてこそ、他力ではないのか。弥陀の誓願は、これら一切のはからいを吹き飛ばすほどの、絶対的なものでなければならないはずだ…。親鸞の信心為本の思想と、信の弥陀廻向論とは、もともと論理の矛盾を内包しています。そして両者をつなぎとめる危うい均衡の破綻、これがやがて親鸞を、自然法爾思想へと向かわせた内的要因なのだろうと思うのですが、それはここのテーマから大きく逸脱する問題です。これで終わらせていただきます」。(27)
 この一節にある「疑心の善人」「七宝の獄」が、まさに私たち浄土宗僧侶やその帰依するお浄土を指していることは言うまでもない。しかし、そうした主張の裏で、当の親鸞聖人ご自身が提唱する「信心為本の思想」と「信の弥陀廻向論」とが論理矛盾に陥っている、と平氏は結論づけている。あるいは平氏は「晩年の親鸞は次第に世界に対する思想的な見通しを失っていった」(28)とも主張されている。紙面の都合上詳説することはできない(29)が、法然上人と親鸞聖人との仏身・仏土の捉え方が根底から異なっている以上、その派生としての三心の理解が自ずから異なってくることもまた必然の結果であることを私たち浄土宗僧侶はしっかりと踏まえておかなければならないであろう。
 昨年の法(行)についての拙論において筆者は「『選択集』第八章(三心篇)・第九章〈四修法篇〉の説示は、それぞれの章の篇目に〈念仏の行者必ず三心を具足すべきの文〉〈念仏の行者四修の法を行用すべきの文〉と掲げられているように、〈念仏の行者〉が主格となって、その立場から〈三心〉〈四修〉を〈具足・行用すべき〉こと、すなわち、願往生人がお念仏を称える際の心のありようやお念仏を称えながらの日々の暮らしについて演繹的に説き明かしたものといえよう。帰納的(五種正行・正助二行)と演繹的との相違こそあれ、両者が機辺(凡夫の側からのアプローチ)の立場から語られていることは言うまでもない」(30)と述べたが、『領解抄』に説かれる良忠上人の三心理解のスタンスもまたそこから一歩たりとも出るものではなく、先に引用した第十一問答の中で「(同じく機辺の側に求められる)四修を以て三心を用策」すべきことを訴えられた良忠上人の姿勢の中に端的に見出せるのである。