三、三心の四句分別説示とその意図

   1、四句分別説示とその源流
 『領解抄』の〔三、三心四句分別の本末十六種〕と〔四、三心分別に就て十一問答〕は、三心について十六種類の四句分別を設定し、それについて十一の問答が述べられる本書の中心である。なるほど、『授手印』において聖光上人は「そもそもこの宗の一大事は、この三心なり。弟子、上人在生の時、能く能くこの御教訓を蒙れり」(11)と述べられているが、『領解抄』における三心重視の姿勢は『授手印』の姿勢を忠実に踏襲したものであることが分かる。三心の四句分別については、すでに多くの先学による指摘があるが、その中、特に緻密な考察を施された林彦明台下は「此の中に於て専ら主力を三心に注ぎ微細精緻殆ど余蘊なく、その問答決疑には相伝口決に依て安心の正意が披瀝されてある。由来三心は宗義の根幹心髄で、善導大師は観経疏に於て八丁半二百余行の広釈を施され、宗祖大師は選択集、漢語灯録、和語灯録に於て最も多く力を籠めて之を解説された。鎮西国師は則ち其口訣相伝に基きて、授手印に之を祖述されたのである。彼の三心に四句分別を用ひて寛狭関係を明にされたごときは、前にも云ひし如く和語灯録巻十一、拾遺和語灯録巻下に於て宗祖が至誠心に於て之を試みられたるを布衍されたのである。即ち授手印には至誠心に虚実、始終多少の三種、深心に信疑、始終の二種、回向発願心に願行有無、西方余事回願の二種、都合七種の四句分別を示されたのである。此れで三心に就て始終多少等の関係が明に知り得られ、念仏行者に取りて一番大切なる安心具足に就ての大教訓を与へられたのである。記主は此の意を承けて更に敷演、深心にも至誠心と同じく多少の四句を作り、回向発願心にも多少と始終の四句を加へて十種の四句分別を施された。乃ち之を「本書(授手印)には略を存じて、僅かに七種を挙ぐ。ただ意を得るに在り。煩わしければ、委しく載せざるのみ。今十種の四句を作って」(12)と述べ、更に「至誠心に一向実と多少虚実とを始終に配し、又た一向虚と多少虚実とを始終に配して二種の四句を作り、それと同じく深心には一向信と一向疑と多少信疑とを始終に配し、回向心にも一向西方と一向余事とを多少西余に対せしめ始終に配して、各々二種の四句を作り、都合十六種六十四転の句に拡充された」(13)と述べられている。
 このように良忠上人は、善導大師・法然上人・聖光上人と継承されてきた三心理解の重要性・正統性を鑑み、『授手印』において聖光上人が提示された三心についての七種の四句分別をさらに敷衍して十六種とし、それに基づいた十一の問答を施されたのである。
 そこで、こうした先学の(14)所説に基づきつつ、『領解抄』説示の次第に沿って十六種の四句分別とそれぞれの往生の得不について一瞥しておきたい。あわせて『授手印』と『領解抄』とに名称の相違があれば後者に傍線を付しておく。
 まず、至誠心における虚実・多少虚実・始終虚実の三種、深心における信疑・多少信疑・始終信疑の三種、廻向発願心における行願・西方余事廻願・多少西方余事廻願・始終西方余事廻願の四種、都合十種の四句分別である。
 (1)至誠心について虚実の四句
  A『授手印』「一向虚仮心(外実内虚之人)・不可得往生」
   →『領解抄』「一向虚仮心(内虚外実)・全不往生」
  B『授手印』「一向真実心(内外倶実之人)・決定往生」
   →『領解抄』「一向真実心(内外倶実)・決定往生」
  C『授手印』「虚実倶具心(半実半虚之人)・不定」
   →『領解抄』「虚実倶具心(半実半虚)・不定往生」
  D『授手印』「非虚非実心(常罪人)」
   →『領解抄』「非虚非実心(未帰浄土)・全不往生」
 (2)至誠心について多少虚実の四句
  A『授手印』「多虚少実・不可往生」
   →『領解抄』「多虚少実・不得往生」
  B『授手印』「多実少虚・若可往生」
   →『領解抄』「多実少虚・若可往生」
  C『授手印』「多少倶実・決定往生」
   →『領解抄』「多少倶実・決定往生」
  D『授手印』「多少倶虚」
   →『領解抄』「多少倶虚・全不往生」
 (3)至誠心について始終虚実の四句
  A『授手印』「始虚終実・往生」
   →『領解抄』「始虚終実・廻心往生」
  B『授手印』「始実終虚・不得往生」
   →『領解抄』「始実終虚・退者下種」
  C『授手印』「始終倶実・決定往生」
   →『領解抄』「始終倶実・決定往生」
  D『授手印』「始終倶虚・不得往生」
   →『領解抄』「始終倶虚・全不往生」
 (4)深心について信疑の四句
  A『授手印』「一向疑心・不得往生(一分之往生)」
   →『領解抄』「一向疑心・全不往生」
  B『授手印』「一向信心・決定往生」
   →『領解抄』「一向信心・決定往生」
  C『授手印』「信疑倶心・不定往生」
   →『領解抄』「信疑倶具心・不定往生」
  D『授手印』「非疑非信心・非一向往生」
   →『領解抄』「非疑非信心・全不往生」
 (5)深心について多少信疑の四句(『領解抄』にのみ言及あり)
  A『領解抄』「多疑少信・不得往生」
  B『領解抄』「多信少疑・若可往生」
  C『領解抄』「多少倶信・決定往生」
  D『領解抄』「多少倶疑・全不往生」
 (6)深心について始終信疑の四句
  A『授手印』「始疑終信・得往生」
   →『領解抄』「始疑終信・廻心往生」
  B『授手印』「始信終疑・不得往生(念仏退転)」
   →『領解抄』「始信終疑・退者下種」
  C『授手印』「始終倶信・決定往生」
   →『領解抄』「始終倶信・決定往生」
  D『授手印』「始終倶疑・非決定往生」
   →『領解抄』「始終倶疑・全不往生」
 (7)廻向発願心について行願の四句
  A『授手印』「有願無行・非宗心」
   →『領解抄』「有願無行」
  B『授手印』「無願有行・非宗意」
   →『領解抄』「有行無願
  C『授手印』「有願有行・浄土宗心」
   →『領解抄』「有願有行」
  D『授手印』「無願無行・非宗心(世間之心)」
   →『領解抄』「無願無行」
 (8)廻向発願心について西方余事廻願の四句
  A『授手印』「西方廻願・浄土宗之本意」
   →『領解抄』「一向西方廻願・決定往生」
  B『授手印』「余事廻願・非宗心」
   →『領解抄』「一向余事廻願・全不往生」
  C『授手印』「西方余事廻願・半宗心半非宗心」
   →『領解抄』「二倶廻願・不定往生」
  D『授手印』「非西方廻願非余事廻願・世俗之輩」
   →『領解抄』「二不廻願・全不往生」
 (9)廻向発願心について多少西方余事廻願の四句
        (『領解抄』にのみ言及あり)
  A『領解抄』「多西少余廻願・若可往生」
  B『領解抄』「多余少西廻願・不得往生」
  C『領解抄』「多少西方廻願・決定往生」
  D『領解抄』「多少余事廻願・全不往生」
 (10)廻向発願心について始終西方余事廻願の四句
        (『領解抄』にのみ言及あり)
  A『領解抄』「始西終余廻願・退者下種」
  B『領解抄』「始余終西廻願・廻心往生」
  C『領解抄』「始終西方廻願・決定往生」
  D『領解抄』「始終余事廻願・全不往生」
 以上が『授手印』に説かれる七種の四句分別を敷衍し、新たに三種を加えた十種の四句分別である。
 次に『領解抄』にのみ言及がある「一向と多少と始終と」(15)を重ね合わせた、三心それぞれに二句、都合六種の四句分別である。
 (11)至誠心について一向実と多少虚実と始終とに対する四句
  A『領解抄』「始一向実・終多虚少実」
  B『領解抄』「始多虚少実・終一向実」
  C『領解抄』「始多実少虚・終一向実」
  D『領解抄』「始一向実・終多実少虚」
 (12)至誠心について一向虚と多少虚実と始終とに対する四句
  A『領解抄』「始一向虚・終多虚少実」
  B『領解抄』「始多虚少実・終一向虚」
  C『領解抄』「始一向虚・終多実少虚」
  D『領解抄』「始多実少虚・終一向虚」
 (13)深心について一向信と多少信疑と始終とに対する四句
  A『領解抄』「始一向信・終多疑少信」
  B『領解抄』「始多疑少信・終一向信」
  C『領解抄』「始一向信・終多信少疑」
  D『領解抄』「始多信少疑・終一向信」
 (14)深心について一向疑と多少信疑と始終とに対する四句
  A『領解抄』「始一向疑・終多疑少信」
  B『領解抄』「始多疑少信・終一向疑」
  C『領解抄』「始一向疑・終多信少疑」
  D『領解抄』「始多信少疑・終一向疑」
 (15)廻向発願心について一向西方と多少西余廻願と始終とに対する四句
  A『領解抄』「始一向西方・終多余少西廻願」
  B『領解抄』「始多余少西・終一向西方廻願」
  C『領解抄』「始一向西方・終多西少余廻願」
  D『領解抄』「始多西少余・終一向西方廻願」
 (16)廻向発願心について一向余と多少西余廻願と始終とに対する四句
  A『領解抄』「始一向余・終多余少西廻願」
  B『領解抄』「始多余少西・終一向余廻願」
  C『領解抄』「始一向余・終多西少余廻願」
  D『領解抄』「始多西少余・終一向余廻願」
このように良忠上人は、三心について実に綿密な四句分別を施されていることが分かるのである。
 すでに善導大師は『観経疏』において、至誠心については自利真実・利他真実の二、自利真実中に十重厭欣、深心については信機・信法の二、信法中に四重の破人、廻向発願心については往相・還相の二廻向など、三心について緻密な分析を施されている。
 これを受けた法然上人も、種々の法語において三心についての詳細な解説を施され、とりわけ、林台下が指摘されているように至誠心については(A)『往生大要鈔』と(B)『御消息』において次のような四句分別を明らかにされている。
 (A)外相の善悪をばかへり見ず、世間の謗誉をばわきまへず、内心に穢土をもいとひ、浄土をもねがひ、悪をもとどめ、善をも修して、まめやかに仏の意にかなはん事をおもふを、真実とは申也。真実は虚仮に対することば也。真と仮と対し、虚と実と対するゆへなり。これ真実虚仮につきてくはしく分別するに、四句の差別あるべし。一にはほか(外)をかざりてうち(内)にはむなしき人、二には外をもかざらずうち(内)もむなしき人、三にはほか(外)はむなしく見えてうち(内)はまことある人、四にはほか(外)にもまことをあらはしうち(内)にもまことある人。かくのごときの四人のなかには、前の二人をばともに虚仮の行者といふべし。後の二人をばともに真実の行者といふべし。しかればたゞ外相の賢愚善悪をばゑらばず、内心の邪正迷悟によるべき也。(16)
 (B)この心(至誠心)につきて四句の不同あるべし。一には外相は貴けにて、内心は貴からぬ人あり。二には外相も内心も、ともに貴からぬ人あり。三には外相は貴けもなくて内心貴き人あり。四には外相も内心もともに貴き人あり。四人が中にはさきの二人はいまきらふところの至誠心かけたる人也。これを虚仮の人となづくべし。のちの二人は至誠心具したる人也、これを真実の行者となづくべし。されば詮ずるところは、ただ内心にま事の心をおこして、外相はよくもあれ、あしくもあれ、とてもかくてもあるべきにやとおぼへ候也。おほかたこの世をいとはん事も、極楽をねがはん事も、人目ばかりをおもはで、まことの心をおこすべきにて候也。これを至誠心と申候也。(17)
 両書共、その四句分別の順序も内容もほぼ同様であるが、『御消息』の用語に基づいてこれを図示すると次のようにまとめられる。 法然上人は、図中「一」と「二」は至誠心が欠け、「三」と「四」は至誠心を具えているとされ、振る舞いの如何にかかわらず、内に真実の心を具えるべきことを訴えられている。もちろん法然上人が「内心のま事もやぶるるまでふるまはば、又至誠心かけたる心になりぬべし」(18)と戒められているように、あまりに乱れた振る舞いが心の内まで影響し、真実の心が失われないよう充分留意しなければならないのは言うまでもない。いずれにしても法然上人によるこうした至誠心についての説示が三心の四句分別の源流となり、それが聖光上人による七種の四句分別へと展開し、『領解抄』に至って十六種の四句分別へと敷衍されていくのである。