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教諭
令和4年1月1日 願譽唯眞
『無量寿経』下に「災厲不起」「兵戈無用」の語が見え、法然上人は『要義問答』の冒頭で「まことにこの身には、道心のなき事と病(やまい)ばかりや嘆にて候らん」と求道者の身を案じられています。
このように災疫・病疫は人間の四苦の一つを構成し、生死の一大事と関わっています。由来、仏教ではこの「疾疫災」に「刀兵災」と「飢饉災」を加えて、三災と称しています。まことに人の死はさまざまで、「大路・小路で斃(たお)れたり、大小便利の所で死ぬ人もあり、また太刀小刀で命を失い、火に焼かれ水に溺れて命を滅す類が多い」と語られています(『往生浄土用心』)。このようななかでも、人々が脅威と感じたのは感染性の高い疫病でした。だれかれ問わず、いつ襲うかも判らないからです。
『一百四十五箇条問答』に次のような問答があります。
一つ、厄病病みて死ぬる者、子生みて死ぬる者は罪と申し候はいかに。
答う。それも念仏申せば往生し候。
この質問者には、疫病や産で死亡した側に罪があるのだろうか。どうしようもなく死に至ったのに、それも罪悪なのかと糺(ただ)す視点がありました。対する法然上人の答には、生死を離れるには念仏を申して往生を願うという宗教的視点の転換こそが必要だとの含意がありました。そしてその場には、悲しみに理解を受け、新しい気付きを得て生き直そうとする苦悩者と、同時に温かい指導者が存在したのでした。
右の簡潔な問答のなかに、生死に流転する罪深いものが救われる道として「念仏往生」の道があることが示されています。これについては「このたび生死を離るる道、浄土に生まるるにすぎたるはなし、浄土に生まる行ない、念仏に過ぎたるはなし」とは『浄土宗略抄』の冒頭に記された文章です。しかし念仏往生が可能なのは実に本願あってのことですが、そこの所が、「我らが往生せん事念仏にあらずば叶い難く候なり。その故は念仏はこれ仏の本願なるが故に、願力に縋(すが)りて往生する事は易し」と弥陀の本願につかまって、一筋に極楽を願い、一筋に念仏して、生死を離れるように勧められた「大胡太郎の妻室へ遣わす御返事」などが今に伝えられています。
このように、生死の迷いを離れて浄土に救われて行くためには、念仏こそがだれにでもできる最勝の道であると示されたのが、法然上人であります。『選択本願念仏集』(第十六章段)にて、
計(おもんみ)れば、それ速やかに生死を離れむと欲せば、二種の勝法の中に、しばらく聖道門を閣いて、浄土門に選入すべし。浄土門に入らむと欲せば、正雑二行の中に、しばらくもろもろの雑行を抛てて、選じてまさに正行に帰すべし。正行を脩せむと欲せば、正助二業の中に、猶し助業を傍らにして、選じてまさに正定を専らにすべし。正定の業とは即ち是れ仏名を称するなり。み名を称すれば、必ず生ずることを得。仏の本願によるが故なり。
と明示されています。称名は弥陀の本願に適(かな)った正定の業なのです。それゆえ本願のままに称名すれば弥陀に救われて往くのは明白です。念仏往生こそ弥陀の本願そのものであったと受け取ることができるのです。
また法然上人の遺文に「正如房へ遣わす御文」がありますが、ここでも上人は正如房に対し、「仏の願力」を慿(たの)み、身の善悪にとらわれず、「一筋に念仏」してほしいと諭し、本願への信を強調しておられます。そして、『観経』を引いて「八十億劫」もの間生死を廻る罪をもつ者が十声一声の念仏で往生できるのは、これも「仏の本願の力」ならばこそだ、と仰信しなさい、仏説は空しくないから、と教えられるのでした。
ただ臨終の善知識については正如房を戒められています。もし導き手が「退縁の悪知識」であれば往生は果たせませんよ、必ず「仏を善知識に慿み」なさい、と。(きっと正如房の囲りには異学の聖道門の人が侍っていたのでしょう)
そして、今、私が別時で称えている念仏を悉(ことごと)く正如房の「往生の御助けになさんとこそ廻向」すると仰有(おっしゃ)り、「慿み思召さ」るようにと付言されています。師のこの言葉に接し、正如房は改めて師のいたわりの深さを感じ取り、今一度の見参が適わなかった寂しさを慰めたことでしょう。
実は正如房への返書のはじめには、人の命は誰れにも定めがなく、ただ遅れ先き立つ別れがあるだけで、亡骸(なきがら)に執するような会い方になるよりも、一仏浄土の再会を果す方が、私たち信仰に生きる者の真実の在りようではないかという上人の心底が伝えられていたのです。この後で右に述べたような記述がつづくのです。勿論、正如房が上人を師と仰ぐ念仏者であるとご存知の上での事でした。
その上で上人は強調されます。阿弥陀が願を立て、釈迦が願を説き、諸仏も証誠され、弥陀化身の善導和尚が教えられた通り念仏申しておれば臨終には来迎して下さって、その慈悲加祐で心が乱れることは決してありませんので、どうか心弱くならないでほしい、と願っておられるのでした。
ところで正如房は正治三年に浄土へ旅立たれましたので、この御文が書かれたのは、『選択集』が成立した時とあまり離れていない頃と思われます。上人の六十歳代の後半に当ります。また前掲の『一百四十五箇条問答』にも建仁元年と注記された問答が含まれていますので、これも又この頃のものです。法然教団も関東に拡がっていた時期です。このような重要な時期から見え出すのが上人の病気に関する記事です。よく風病や瘧(おこり)に罹られましたが、病の中で念仏をなさる上人の様子が窺えます。
その一つに津戸三郎宛の書状があります。「津戸返状(四月二十六日)」によると次の通りです。
この正月に別時念仏を五十日修しましたが、年来の風が積り、二月十日頃より口が乾くようになり、五十日まではと頑張っていましたが口の乾きが勝り水を飲むようになり、体も痛くなり、今日まで長引いておりますが御心配下さる程ではありません。医師が病いが重くなると申しますので灸を二度し、湿布もしました。また、いろいろな唐の薬を服したからか、ほんの少し良くなってきたようです。
このように病状を伝え、すぐにでも見舞に上京するという津戸に対して、どこに居ても念仏申して、互いに往生を期することが「めでたく永き計りごと」になるのではないか、と仰有っています。病中にあっても念仏のことが上人の念頭に絶えずあり、これが津戸への右のような言葉になったのでしょう。
「めでたく永き計りごと」とは本願を慿んで念仏を称え、来迎を仰ぎて浄土へ往き生まれ、互いの再会を果たすという同法者間の契りでもあります。先述の正如房への上人の約束でもわかり、また「わが新生の蓮台を祈るべし」とのお言葉(「没後遺戒文」)とも連なっています。法然上人が求められた生死出離の道は、この「めでたく永き計りごと」として教化され、その教学理論が『選択集』撰述となったわけです。
ここで特記すべきは、『選択集』成立の建久九年より正治二年、建仁元年、同二年、建久九年、元久三年にかけて、上人の三昧発得があい次いだことです。『三昧発得記』には水想、地想、宝樹、宝池、宮殿の五観らの霊相や勢至菩薩、最後に弥陀三尊の現出が連記されていますが、なか程の建仁元年の項に「今において経ならびに釈に依りて往生疑いなし。地観の文に心に疑ひなきを得る故なり云々。思ふべし」といった文言が交っています。これは経釈や往生について絶対の信を表白されたものです。
この崇高な口称三昧中にも、上人は病に依って念仏を一万あるいは二万と減少しながらも相続され、元の七万遍に復されたのでした。上人の強靭な精神力と高揚される宗教的歓喜にはただただ頭が下がるばかりであります。末徒たる我ら、不抜の信念を持って上人が得られた宗教体験に少しでも近づくよう精進しなければなりません。