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教諭
令和5年1月1日 願譽唯眞
法然上人の偉大さは、今どきの我ら凡夫にふさわしい法門は、阿弥陀仏の本願を深く信じ、口称の念仏だけを専ら修して、弥陀の救済にあずかれる浄土の教門だけである、という革新性にありました。
しかし、その思想形成にはかなりの道程がありました。幼少の登山、十八歳での黒谷隠栖、顕密修学、学匠歴訪などと続いても、上人の心は満ちませんでした。生死出離の道が見出せなかったからです。そして、この世―末法の「時」と、わが身―三学非器の「機」とに照らしてふさわしい教法を見出そうと努め、徹底した自照と課題追究の日々に身を置かれたのでした。
このような中で、上人は聖道門を捨てて浄土門を取る姿勢を顕著とされますが、そこには、全仏教を「救済性」の有無に依って見直す姿勢がありました。
上人は源信の『往生要集』を読まれ、この書の要旨が念仏の勧化にあると会得し、さらに同書が引用する善導大師『往生礼讃』の「百即百生」云々の文を見られたものの、そのような功徳がある根拠については詳述していないので、転じて善導大師の著作を精読されました。
『観経疏』散善義(第四巻)の就行立信釈の中に瞠目の文章がありました。「開宗の文」として周知の
一心に専ら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に、時節の久近を問わず、念々に捨てざる者、これを正定の業と名づく、かの仏の願に順ずるが故に
のご文であります。たちどころに上人は、念仏が百人が百人ながら極楽に往生できる行である根拠を了解されました。念仏は行者側が起す不確定なものではなく、実に仏の本願、すなわち万民を救済せんとの弥陀の聖意に発した行だったのです。弥陀の本願こそが往生を可能とする根源だと確信されたのです。
このように上人が『観経疏』を「披閲してほぼ素意を識り、立ちどころに余行を捨てて念仏に帰」したのは、「昔」であったと『選択集』後序で追懐されるのですが、上人の「七箇条制誡」に「念仏を修して(略)今に三十箇年」とありますので、制誡のあった元久元年(一二〇四)より逆算しますと、まさに承安五年(一一七五)に当ります。
ところで、「開宗」の宗について、宗義と教団(衆)との二義があります。上人に即して云えば宗とは「救いの道」の謂であり、個から衆へと洽き及ぶものでした。上人は直ちに余行を棄て念仏行を選ばれるや、「それより己来、自行化他ただ念仏を縡」(『選択集』後序)とされています。念仏救済の道は化他へと続き、念仏衆が出現したのでした。法然上人のご生涯には、「念仏に至る道」の前半、それ以降の「念仏を生きる道」の後半があったのです。法然上人の思想形成はこの画期で止まらず、さらに独創的な選択本願義を構築すべく深化していきました。
令和五年一月一日
浄土門主 伊藤唯眞