上述のごとく、法然上人は『選択集』において、念仏するものは阿弥陀仏と深い関係ができる、といって三縁を説かれている。三縁とは親縁・近縁・増上縁である。
これは念仏信者が仏に思いをかけて念仏するならば、念仏は仏のみ名を称えることであるから、仏は念仏者を見たまい、知りたまい、聞きたまい、憶念したまう(親縁)。さらに仏は目前に現れたまい(近縁)、罪障が消えて、この人生が終われば浄土に導きたまう(増上縁)。われわれの肉眼にてはそのお姿を見ることはできないが、法然上人は念仏三昧の中に観見されたのである。たとえ、人間凡夫の肉眼では見ることができなくとも、仏は目前に在します。そして念仏するものを擁護したまう。『阿弥陀経』に、
「もし善男子善女人あって、この諸仏所説の名(阿弥陀仏の名号)及び経の名(阿弥陀経)を聞くものは、みな一切諸仏と共に護念せられて、阿耨多羅三藐三菩提を退転せざることを得る」
と説かれている。聞名・聞経のみにても護念の益をうけることができる。まして仏名を称えたならばなおさらのことである。法然上人は『選択集』において、念仏するものは六方諸仏の護念の利益をうけるばかりでなく、浄土の阿弥陀仏および観音勢至等の二十五菩薩の擁護を頂くことができて、悪鬼悪神の禍や、殃難横死の災厄などにあうことなく、延年転寿を得て長生きができる、といって、念仏行者の頂く現世の利益を説かれている。聖光上人はこれを不離仏・値遇仏といわれ、現生において阿弥陀仏の御姿を見る、と説かれている。
(昭和60年度 浄土宗布教必携より)