3、仏の光明を仰ぐ

『観経』に、

「光明はあまねく十方世界を照らして、念仏の衆生を摂取して捨てたまわず」(光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨)

と説かれている。光明とは仏の「さとり」の智恵を表象するものである。阿弥陀仏のお像が金色に輝き、後背の円光(蓮華光)が金箔で飾られているのは、いずれも仏の光明の偉大なることを示すものである。金は不変の色であるから、これをもって「さとり」の境界を示す。仏の「さとり」の智恵とは、世界の一切のものは縁起のものであり、互いに相依相関の関係にあることを知り極められた智恵である。独立した自我なるものは存在し得ないにかかわらず、人間は「我欲我執」にとらわれて苦しみ悩み迷う。この人間の「我欲我執」にとらわれた心の奥の奥底まで知り尽くしていられるのが仏の智恵である。

 人間社会においては、法律の裏をくぐるもの、悪用するもの、妄言をなすもの等、いろいろな反社会的反倫理的な行為が行われているが、仏は現実人間の本性たる「我欲我執」を知り極められた方であるから、人間の考えや行為をすべて知り尽くしておられる。したがって、社会の人々の目はごまかすことはできても、仏の智恵の目はごまかすことは出来ぬものである。法然上人は阿弥陀仏の「さとり」の智恵について、『選択集』には

「弥陀一仏の有するところの、四智三身、十力四無畏等の一切の内証の功徳、相好光明説法利生等の外用の功徳」

といわれて、仏はかかるすぐれた功徳智力をもって、一切の人々の素質や能力、願いや、過去未来のこともすべて知り尽くされていると説かれている。それでこの仏の智恵の威徳を仰信するところに、光り輝く仏の御徳が感得せられて、廃悪修善の心が生じる(仏さまが見ていられるから悪いことはできない)。また、過去において犯した悪業に対する反省、自責の念(懺悔の心)が生じる。これが光明滅罪といわれるものである。この仏の智恵の偉大なることを十分に力説して、廃悪修善の心をおこすように教え導かなければならない。

(昭和60年度 浄土宗布教必携より)