2、み仏とともに(光明摂取・不離仏・値遇仏)

 法然上人は『選択集』第七「光明唯摂念仏行者篇」において、念仏するものは仏と深い関係(親縁、近縁、増上縁の三縁)が生ずと説かれ上人自身も「常に仰せられける御詞」に

 「生けらば念仏の功つもり、死なば浄土へまいりなん。とてもかくても、此の身には、思いわずらう事ぞなきと思いぬれば、死生ともにわずらいなし」

といわれて、念仏するものは現世において「思いわずらうこと」のない安らかな生涯を説かれている。これは仏とともに在る生涯をいわれたもので、聖光上人はこの意趣をうけて、『撤選択集』において、念仏するものは常に仏に遇い、仏と離れず、仏の護持をうけ、仏が目前に在すことを知る(見仏)と説かれている。これが不離仏・値遇仏ということで、念仏するものが心の中に開く「念仏信仰の花」の具体的な姿と思われる。したがって、私一人ではなく、仏とともに在る人生であるから、自ら廃悪修善の心がおこり、正しい道を行うことになる。つまり、仏の擁護に対して感謝の念をもつべきことを説きあかす。

 このように本年度は、念仏するものに、仏は光明をもって照らし見たまい、仏と深い関係(親縁、近縁、増上縁および不離仏、値遇仏)が出来て、仏の擁護をうける人生であることを説いて、私一人の人生ではなく、仏とともに在る人生である点を強調することを目標とする。

 宗教心は波乱の多い、諸行無常の人生を生きぬく原動力であるとともに、高齢者に生きる価値を示すものである。仏を忘れ、神を見失って、物欲にのみ走り、潤いのない社会にあって、「死生ともにわずらいなし」といわれた法然上人の精神、不離仏・値遇仏を説かれた聖光上人の御意を伝えて、「今日の生きる喜びと明日への希望を与え」、有限なる人生にありながら無限の生命に生きる指針を示すのが、浄土宗の布教である。

 ことに、高齢化社会となり、高齢者の生き方、寝たきり老人の問題、および、看護にあたる家族の労苦等が伝えられて、大きな社会問題となっている。身心ともに衰えた高齢者に余生の価値を説き、救いの手をのべるのが、浄土教である。「第二の人生が極楽浄土であることを信じて、仏の擁護(不離仏・値遇仏)を喜び、感謝の余生である」ことを説いて、満足感をもって人生の終末を迎えさすことにつとむべきである。安楽死は満足死でなければならない。

 また、看護にあたる人に看病福田を説いて、病人を看護して喜びの心を与えることは、看護者自身の福田を耕すことであり、仏は光明をもって福田を耕す人を見たまうことを信じて、喜びの心をもって看護に従事すること説くべきである。これが仏の教えを信じ念仏するものの心構えであることを説きあかすべきである。

(昭和60年度 浄土宗布教必携より)