2、仏の光明を仰ぐ

『観経』に「光明はあまねく十方世界を照して、念仏の衆生を摂取して捨てたまわず」(光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨)と説かれている。光明とは仏の「さとり」の智恵を表象するものである。阿弥陀仏のお像が金色に輝き、後背の円光(蓮華光)が金箔で飾られているのは、いずれも仏の光明の威大なることを示すものである。金は不変の色であるから、これをもって「さとり」の境界を示す。仏の「さとり」の智恵とは、世界の一切のものは縁起のものであり、互いに相依相関の関係にあることを知り極められた智恵である。独一した自我なるものは存在し得ないにかかわらず、人間は我欲我執にとらわれて苦しみ悩み迷う。この人間の我欲我執にとらわれた心の奥の奥底まで知り尽していられるのが仏の智恵である。

 人間社会においては、法律の裏をくぐるもの、悪用するもの、妄言をなすもの等、いろいろな反社会的反理論的な行為が行われているが、仏は現実人間の本性たる我欲我執を知り極められた方であるから、人間の考えや行為をすべて知りつくしておられる。したがって、社会の人人の目はごまかすことはできても、仏の智恵の目はごまかすことは出来ぬものである。このように仏の智恵の威徳を仰信するところに、光り輝く仏の御徳が感得せられて、廃悪修善の心が生ずる(仏様が見ていられるから悪いことはできない)。また、過去において犯した悪行に対する反省、自責の念(懺悔の心)が生ずる。これが光明滅罪といわれるものである。この仏の智恵の威大なることを十分に力説して、廃悪修善の心をおこすように教え導かなければならない。

(昭和58年度 浄土宗布教必携より)