1、仏の大慈悲を頂く
念仏は阿弥陀仏の大慈悲心の現われである。
阿弥陀仏は本願の第十八願において、「一切の人々が信心をおこして、念仏を称え、もし浄土に生まれることができなければ、“さとり”をひらいた仏とはならない」(設我得仏 十方衆生至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚)と誓っていられる。仏の本願は総じて四十八願とされるが、善導大師が「一々の誓願は衆生のためなり」といわれたごとく、四十八願すべて人間救済のための願である。阿弥陀仏が無量寿であり、無量の光明をもちたまうことは、悩める人間が無数あり、また未来永劫に悩める人間が存在するからである。また、西方に美しい安楽な世界を構えたまうことは、現世が余りにも汚れているためであって、未来永劫に悩める一切の人々を平等に救い導くためである。
阿弥陀仏は我欲我執にとらわれて悩み苦しむ弱い人間を平等に救済するために、兆載永劫という長い時間をかけて修行を励み、ついに「さとり」をひらいて仏となられたのである。そして、万人が行うことの出来る、たやすくして、しかも勝れた功徳のある念仏を称えるだけで、だれでも平等に救済すると誓っていられる。それで、いかなる悪人であっても、懺悔して、仏の本願の大悲を仰信して念仏するならば、仏は救済の手を垂れたもうのである。
しかし、第十八願の末尾に「ただ五逆と正法を誹謗するものは除く」と注意されている。これはいかなる悪人でも懺悔して念仏を称えたならば救済されるものであるが、五逆罪(父を殺す、母を殺す、聖者を殺す、仏身に傷をつける、信者の集団を乱す)を犯したものと、釈尊が説かれた正法をそしるものは、この限りでないと警告されたものである。したがって、日々の自己の行為をよく反省して自戒し、仏の大悲による救済を確信して、救いの喜びと仏恩感謝の生き方をするよう説きあかすべきである。
(昭和58年度 浄土宗布教必携より)