総論
五十年に一度という一宗の重要な行事が、近々八年の間に引き続いて行われた。すなわち法然上人浄土開宗八百年記念法要(昭和四十九年)、善導大師一千三百年遠忌(昭和五十五年)、法然上人お誕生八百五十年慶讃(昭和五十七年)等である。まずこれらの勝縁に遇うことが出来た因縁を喜びたい。これを機縁として、浄土一宗、各本山、各寺院においては、それぞれ記念の行事が催されたが、念仏信仰の涵養に資するところ、きわめて大なるものがあったと思われる。しかし、記念事業として造られた常塔伽藍は、形あるものとしては存在するが、念仏の信仰は無形のものである。また、善導大師が「二河白道の譬え」において誡められているように、浄信心たる白道は水火の二河(貪欲・瞋恚)によって常に汚されがちであって念仏の信仰は障害されやすく、退転しがちである。よって不断の絶えざる教化が必要である。布教師たるものは、「時」「処」「所縁」を選ばず、常に檀信徒教化の心構えをもつことが大切である。
現代社会の構造は複雑細分化し、それを構成する人間は、それぞれの年次に応じ、また住する地域社会(大都市・中小都市・農山村等)の相違、境遇・教育・業務等の異なりによって、解決すべき多くの問題を有している。そればかりではなく、現代人は物質文化におぼれ、金銭欲のために東奔西走し、権利なる言葉に妄執して責任義務を忘れている。社会に起る諸問題のほとんどが、権利に妄執する人間の「我欲我執」によるものと思われる。小は一個人のわがままな行為(暴走族、青少年非行)から、大は国家我(国家間の戦争)、民族我(民族戦争)、人間我(自然破壊)に至るまで、すべて「我欲我執」による行為と考えられる。そのために家庭が破壊され、社会秩序が乱れるとともに、やがて国家間の戦闘となって、多くの人命が失われているのが現実である。
現在、米ソ両国の軍備拡張と核兵器の開発は、太陽系宇宙における唯一の生物生存体である宇宙船「地球号」をして荒廃滅亡せしめる危機をはらんでいる。これまた、国家我による世界征服という野望の表われに他ならない。
「我欲我執」とは、己れひとり良しとして、他のものの存在を認めない我利我利亡者のわがままな考えをいうのである。それがために、世の多くの人々が痛み、苦しみ、死傷しているのである。
「なぜ、人間が人間を痛みつけ、殺しあわねばならないのか」
釈尊は、この「我欲我執」にとらわれている人間に対して、「無我の教え」、「縁起の道理」をお説きになって、人間の平等を示された。人間をも含めて一切のものは相依相関の関係にあり、あい依りあい助けあって存在しているものである。自然があるから人間の生存が許され、他の国家、他の民族があることによって、自身の国家民族が存在しているのである。一家庭にしても、親子、夫婦、兄弟、親族等の関係が正しく守られ、また、他の家庭、隣人と互いに連帯観をもつことによって、家庭の平和があり、社会の平和がある。
しかるに、「我欲我執」によって他の存在を認めず、わがまま勝手な行為に走るところに、家庭の平和、社会の安寧はおびやかされ、種々な家庭問題、社会問題が起ると考えられる。したがって、かかる人間に対しては、仏教の根本原理たる「縁起」「無我」の教えを説きあかすとともに、「我欲我執」を十分に克服することのできない人間の弱さ、無力を知らしめて、愚かな自己を自覚せしめなければならぬ。仏を忘れ神を見失って金銭欲にのみ走り、潤いなき社会にあっては、「死生ともにわずらいなし」といわれた法然上人の念仏精神を伝えて、「今日の生きる喜びと明日への希望を与え」、有限なる人生にありながら無限の生命に生きる指針を示すのが浄土宗の布教であろうと思う。
(昭和58年度 浄土宗布教必携より)