諸の仏子等、掌を合せて至心に聴きたまえ。我今諸仏大戒の序を説かんと欲す。衆集れり。黙然として聴きたまえ。自ら罪有りと知らば、当に懺悔す。懺悔すれば即ち安楽なり。懺悔せざれば罪ますます深し。罪無くんば黙然せよ。黙然するが故に当に知るべし、衆清浄なりと。諸の大徳、優婆塞、優婆夷等、諦かに聴け。仏滅度の後、遺法の中に於て、当に波羅提木叉を遵敬すべし。
波羅提木叉とは即ち是れ此の戒なり。此の戒を持つ時は、闇に明に遇えるが如く、貧しき人の宝を得たるが如く、病める者の差ることを得たるが如く、因繋の獄を出たるが如く、遠行者の帰ることを得たるが如し。当に知るべし。此は即ち是れ衆等の大師なり。若し仏世に住したもうと雖も此れに異ること無けん。怖心は生じ難く、善心は発し難し。故に経に云く、小罪を軽んじて以て殃い無しと為ること勿れ。水の滴り微なりと雖も、漸く大器に盈つ。刹那の造罪、殃無間に堕す。一たび人身を失いつれば、万劫にも復らず、壮なる色の停らざることは、猶し奔る馬の如し。人の命の無常なることは、山の水よりも過たり。今日存すと雖も明なんまでも亦保ち難し。衆等各々一心に、勤修精進して慎んで懈怠し、懶惰し、睡眠して、意を縦にすること勿れ。
夜は即ち心を摂めて、三宝を存念せよ。以て空しく過して、徒らに疲労を設け、後代に深く悔ゆること莫れ。衆等各各一心に謹んで此の戒に依りて、如法に修行し当に学すべし。
第三篇 五重相伝
第三篇 五重相伝 目次
道場のきまり(道場清規) 五六
一、序説 五七
五重相伝の意義 五七
五重の巻物 五八
五重の起源 五九
二、本講 六〇
初重『往生記』 六〇
伝灯分 六〇
正説分 六四
二重『末代念仏授手印』 六八
伝灯分 六八
正説分 七一
三重『領解末代念仏授手印鈔』 七三
伝灯分 七三
正説分 七五
四重『決答授手印疑問鈔』 七五
伝灯分 七五
正説分 七六
第五重『往年論註』 七七
伝灯分 七七
正説分 七八
三、道場分 七九
懺悔会 七九
道場のきまり(道場清規)
一、篤く三宝(仏法僧)を敬うこと
二、内外清浄に、和よく敬いあうこと
三、このたびの五重相伝は私の生涯にただ一度限りと心得てはげむこと
四、休みの時間も雑談せず、お念仏を離れぬよう心得ること
五、おつとめ、礼拝、念仏、食事などすべて係の方の指図を守ること
一、序説
五重相伝の意義
五重相伝は略して五重とも申しまして、浄土宗では授戒会とともに最も大切な法会となっております。このたび、種々の因縁に恵まれてこの法会に加わることのできましたことを、生涯にただ一度限りと心得て、よろこびの中に努力精進されんことをお願いいたします。人として本当の自己にめざめ、生き甲斐のある真の人生を発見して、明るい信仰生活を築くことが大切であります。
五重の期間中には、仏教徒であるという自覚に立って、仏法僧の三宝を敬うことに心がけ、身も心もいつも清浄に保ち、同行同信の者は仲良く心を合わせて、教えを聞き、懺悔し、礼拝し、念仏をはなれないよう心がけなければなりません。
五重の巻物(書物)
五重は、浄土宗祖法然上人のみ教えを、祖師方の作り伝えられた巻物(書物)を通して、順序よく正しくいただくことができます。
次に、その順序、名目、祖師の名、伝目、うけとり方、要旨を最初に掲げておきます。
順序 巻物 作者 伝 うけとり方 要旨
初重 往生記 元祖円光大師法然上人 機 どうすれば往生できるか どんな愚かな者でも
二重 末代念仏授手印 二祖鎮西国師聖光上人 行(法) どんな行をすればよいか 南無阿弥陀仏と称うれば
三重 領解末代念仏授手印鈔 三祖記主禅師良忠上人 解 どうすれば往生疑いなしとわかるか 必ず往生できると思いとり
四重 決答授手印疑問鈔 右同 証 どうすれば疑問が消えて心におさまか もはや一点の疑いもなく
第五重 往生論註 曇鸞大師 信 口伝による十念の伝 思いを凝して南無阿弥陀仏
五重の起源
仏祖釈尊は、阿弥陀如来の他力本願の教えを浄土三部経(無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経)の上に説かれ、浄土の列祖(馬鳴菩薩・龍樹菩薩・天親菩薩・菩提流支三蔵=以上インド、曇鸞大師・道綽禅師・善導大師=以上中国)はインド・中国とこれを相伝されました。元祖法然上人はわが日本において浄土宗を開宗され、二祖鎮西上人、三祖記主禅師、四祖寂慧上人と一器の水を一瓶に移すように、もれなく相伝されてまいりましたが、浄土宗第七祖了誉聖冏上人は、その要旨を五とおり(五重)にまとめて第八祖西誉聖聡上人(増上寺開山)に伝えられたのが五重のはじまりであります。爾来、今日にいたるまで、尊くも大切に伝えられて来た浄土の教えであります。釈尊以来のこの法統を伝灯と申しまして、私たちはこのたび伝灯師さまよりそれをいただくのであります。
五重は、もともと僧侶のみに大切に伝えられたものですが、徳川家康公の六世の祖である三河(愛知県)岡崎城主松平親忠公の特別の願いにより、岡崎大樹寺開山勢誉愚底上人により相伝されたのが、在家信徒に対する五重相伝のはじまりであります。
二、本講
初重『往生記』(宗祖法然上人作)
伝灯分
法然上人は、幼名を勢至丸とよび長承二年(一一三三)美作国久米郡南条稲岡庄(岡山県久米郡久米南町、誕生寺)に誕生されました。父は漆間時国という武士、母は秦氏の出であります。
九歳の時、父は源内武者定明という者の夜襲をうけて不慮の死を遂げられたのですが、父の遺言は「仇を討つなかれ」でありました。これは、敵味方をこえた(怨親平等)平和を願う世界に生きることでありましたので、上人は「父の遺言忘れがたくして」と述べられて生涯求道精進されたのであります。しばらく叔父にあたる菩提寺(岡山県勝田郡奈義町高円)の観覚得業のもとにありましたが、十五歳の時、
かたみとて はかなきおやの とどめてし
この別れさえ またいかにせん
この母との別離の歌を残されて、当時仏教の中心地であった比叡山に登り、持宝房源光上人のもとに至りました。ついで皇円阿闍梨について剃髪受戒し、天台の法門の学問をおさめ、十八歳の時、同じ比叡山西塔の黒谷別所(青竜寺)に叡空上人をたずね、四十三歳に至るまで求道研修を重ねられました。法然房源空の名はこの叡空上人より授けられたものでありました。
二十四歳で、嵯峨清凉寺(京都市右京区)に参龍し、三国(インド・中国・日本)伝来の釈迦如来像のみ前に仏成就を祈り、ついで奈良に仏教の学者・名僧を訪ね、誰でも救われる道を尋ねられたが、必ずしもその望みを得ることができず、再び、黒谷に帰り一切経をくりかえしくりかえし読まれ、求道一途の勉学修行の精進をつづけられました。ついに承安五年(一一七五)三月、四十三歳の時、中国唐の善導大師の『観経疏』の一文、
一心に専ら弥陀の名号を念じ、行住坐臥に、時節の久近を問わず、念々に捨てざる者、是れを正定の業と名付く、彼の仏の願に順ずるが故に
の教旨を確信体得されて、念仏一行を専ら修せられることとなったのであります。この時を浄土開宗の年とされています。
浄土宗徒として忘れることのできない開宗のことについて、三祖記主禅師は次のように伝えておられます(『疑問鈔』巻上)。
故上人黒谷に帰って報恩蔵に入て、一切経を抜くこと己に五遍なり。猶、出離の要道を得ざれば、悲歎休み難し。但し、善導勧化の書籍あり。以ての外、下機に約して往生の機を判ぜり。之に依ってその意を明めんがために、別して披くこと三遍なり。前後補接して、窃かに見ること八遍なり。第八遍の時、一心専念弥陀名号等の釈に至って、廓然として善導の元意を覚り、予が如き下機の得度をば、昔法蔵菩薩兼ねて定め置かせましましけるものをと覚えて、不覚に落涙す。生年四十三の時、一向専修の行に入りて初めて六万遍を唱るなりと故上人は仰せられしなり。
このように、法然上人は仏典を通じて善導大師より本願念仏の法をうけられましたが、これを経巻相承と申します。
これによって、六十六歳の時、『選択集』を著作して宗義をまとめられました。
また善導大師は、法然上人より五百年も前のお方であり、時も所もへだたりがあったわけですが、念仏三昧の夢定中に阿弥陀如来の化身としての善導大師と対面(二祖対面)され、往生浄土の奥義を相伝されております。このときの模様を『勅修御伝』巻七は次のように伝えています。
上人ある夜嫁見らく、一の大山あり、その峰きわめてたかし。南北長遠にして西方にむかえり。山のふもとに大河あり。碧水化より出て、波浪南にながる。(中略)空中に、一聚の紫雲あり。この雲とび来りて上人のところにいたる。(中略)この紫雲また北にむかいて山河をかくせり。(中略)雲の中より一人の僧出て、上人の所にきたり住す。そのさま腰より下は金色にして、腰より上は墨染なり。(中略)「我はこれ善導なり」と。(以下略)
これを直授相承と申します。こうして法然上人はこの経巻・直授の二つの相伝(相承)により、いよいよ浄土信仰を確信されたのであります。
このようにして、上人は黒谷を去り京都に出られ、東山吉水の庵室(知恩院の辺)において、生涯を念仏弘通にささげられました。七十五歳の時、南都北嶺の禅圧による法難をうけて四国へ流罪されます。
つゆの身は ここかしこにて 消ゆるとも
心は同じ 蓮のうてなぞ
九条関白兼実公その他多くの弟子たちとの別れに際し、この歌をのこされて洛南鳥羽より讃岐(香川県)に遠流されました。
間もなく勝尾寺(大阪府箕面市)に帰られ、四年余りの後、七十九歳、京都に帰られましたが、翌建暦二年(一二一二)病いを得られ、『一枚起請文』を遺訓とされて、正月二十五日、八十歳をもって往生浄土の本懐をとげられました。
初重の教えは、この宗祖の残しおかれた『往生記』により、念仏信仰の最初の心得をいただくのであります。
正説分(愚かな罪深い自己をみつめて)
まず自分の人生の目標を正しく確立しておくことが、何よりも大切であります。煩い多く、悩み深く、矛盾・不安の現実世界をはなれて(厭離穢土)、永遠なるまことの世界に向って歩んでゆく(欣求浄土)ことが私たちの大きい目標であります。すなわち、極楽に向って生き行く歩みこそが人生なのであります。このことを往生と申します。
さて、この人生の第一歩は自己を知ることでありまして、これを相伝の上で「機」と習い伝えます。『往生記』には種々の人をあげて、これを一つの鏡・尺度として、自己の本当の姿を内省し発見してゆくことをすすめておられます。
第一 難遂往生の機(往生しがたい人)十三人
第二 四障(往生の障りになるもの)
1 疑心
2 懈怠
3 自力
4 高慢
第三 四機(往生のできるもの)
1 信心
2 精進
3 他力
4 卑下
第四 種々念仏往生の機(往生のできる人)二十六人
1 知行兼備して念仏往生の機 三人
2 義解念仏往生の機 三人
3 持戒念仏往生の機 二人
4 破戒念仏往生の機 二人
5 愚鈍念仏往生の機 十六人
この愚鈍念仏往生の機こそ「本願の正機」であります。入信第一歩で自己をみつめ、そして罪深く、愚かな無力な私であることに気づかせられる時、阿弥陀如来の本願によりお救いいただけるのであります。
第五 一紙小消息
末代の衆生を、往生極楽の機にあてて見るに、行すくなしとても、疑うべからず。一念十念に、足りぬべし。罪人なりとても疑うべからず。罪根深きをも嫌わじとのたまえり。時くだれりとても疑うべからず。法滅以後の衆生、なおもて往生すべし。況や近来をや。我が身わらしとても、疑うべからず。自身はこれ煩悩具足せる凡夫なりとのたまえり。十方に浄土多けれど、西方を願うは、十悪五逆の衆生の生るる故なり。諸仏の中に、弥陀に帰したてまつるは、三念五念に至るまでみずから来迎したもう故なり。諸行の中に念仏を用うるは、かの仏の本願なるゆえなり。いま弥陀の本願に乗じて往生しなんに、願として成ぜずということあるべからず。本願に乗ずることは信心の深きによるべし。うけがたき人身をうけて、あいがたき本願にあいて、おこしがたき道心を発して、はなれがたき輪廻の里をはなれて、生れがたき浄土に往生せんこと、悦の中の悦なり。罪は十悪五逆の者も生ると信じて、少罪をも犯さじと思うべし。罪人なお生る、況や善人をや。行は一念十念なおむなしからずと信じて、無間に修すべし。一念なお生る、況や多念をや。阿弥陀仏は不取正覚の言を成就して、現に彼の国にましませば、定めて命終の時は来迎したまわん。釈尊は善哉、我が教に随いて生死を離ると知見したまい、六方の諸仏は、悦ばしきかな、わが証誠を信じて、不退の浄土に生ると悦びたもうらんと。天に仰ぎ地に臥して悦ぶべし、このたび弥陀の本願にあうことを。行往坐臥にも報ずべし、かの仏の恩徳を。頼みても頼むべきは、乃至十念の詞、信じてもなお信ずべきは、必得往生の文なり。
この『一紙小消息』は、法然上人が黒田の聖人につかわされた文でありまして、初重往生記のしめくくりになるものです。
二重『末代念仏授手印』(二祖聖光上人作)
伝灯分
浄土宗二祖聖光上人は、弁長−−のち弁阿上人・鎮西上人とも称せられ、仁孝天皇から大紹正宗国師と諡名されました。応保二年(一一六一)五月筑前国香月庄(北九州市)に誕生され、十四歳にして剃髪して仏門に入り、二十二歳、比叡山に登り天台を学び、二十九歳、郷里に帰り無常を悟り、念仏行者となられました。
三十六歳、吉水の庵室に法然上人を訪ね、弟子となります。やがて浄土宗二祖として宗祖大師の真意をうけつぎ、鎮西(九州)を中心に念仏弘通の生涯が始まったのであります。建久九年(一一九八)、宗祖より『選択本願念仏集』二巻を授けられ、浄土の法門のすべてについて相伝されたのであります。宗祖滅後十七年の安貞二年(一二二八)十一月、聖光上人は『末代念仏授手印』一巻を制作され、宗祖よりのすべての面授相伝の正義を書き留められました。七十六歳、嘉禎三年(一二三七)八月一日、三祖然阿良忠上人に伝灯の血脈を付属され、翌年入滅されました。
授手印一巻を作られた由来については、宗祖滅後門下の間に分派、異流、邪義が盛んに行われたので非常に心痛され、法然上人より面授相伝されたすべてを筆録されたものであります。しかも、この書物の最後に手印を押されておりますことは、浄土の正しい法灯を護る烈々たる二祖上人の心血を注がれた至誠を、今にいただくことができるものであります。
次に授手印の序文を掲げておきます。
末代念仏授手印序 作者弁阿
夫れ以れば、九品を宿と為んには、称名を以て先と為す。八池を棲と為むには、数遍を以て基と為す。念仏とは、昔の法蔵菩薩の、大悲誓願の筏、今の弥陀覚王の広度衆生の船、是れ則ち菩薩利益衆生の約束、是れ則ち如来の平等利生の誠言、尤も馮もしき哉。尤も真なる哉。所以に弟子、昔は天台の門流を酌で円乗の法水に浴せしかども、今は浄土の金池を望んで、念仏の明月を翫ぶ。爰を以て、四教三観之明鏡をば、相伝を証真に受く。三心五念の宝玉をば、稟承を源空に伝う。幸なる哉。弁阿血脈を白骨に留め、口伝を耳底に納めて、慥に以て、口に唱ふる所は、五万六万、誠に以て心に持つ所は、四修三心なり。之に依て自行を専にするの時は、口称の数遍を以て正行と為し、化他を勧むるの日は称名の多念を以て浄業を教う。然りも雖も、上人往生の後には、其の義を水火に諍い、其の論を、蘭菊に致して、還って念仏の業を失いて、空しく浄土の業を廃す。悲しい哉悲しい哉。いかんがせん、いかんがせん。ここに貧道、齢己に七旬に及んで、余命又幾干ならず。悩かずんばあるべからず。愁えずば空しく止みなん。これによって、肥州白川河のほとり、往生院の内に於て、二十有の衆徒を結び、四十八の日夜を限りて、別時の浄業を修し、如法の念仏を勤む。此の間に於て、徒らに称名の行を失することを嘆き、空しく正行の勤を廃しぬることを悲しんで、且つは然師報恩のため、念仏興隆のために、弟子が昔の聞きに任せ、沙門が相伝によりてこれを録して、留めて向後に贈る。仍て末代の疑を決せんがため、未来の証に備えんがために、手印を以て証と為して、筆記する所左の如し。
正説分(正しく伝えられた浄土の行)
授手印は六つに大別して浄土宗義を述べ、最後に「奥の図」でまとめられております。
宗義と申しましても、決して単なる哲学や学問を説くのではありません。すでに初重において自分自身を内省し、愚鈍の機である自己を発見して光明の世界に向って歩き出したのでありますから、実践のしかた(起行)、心の置き方(安心)を順序正しく述べたものであります。
一、五種正行
1 読誦正行
2 観察正行
3 礼拝正行
4 口称正行
5 讃歎供養正行
二、正助二業
1 正定業
2 助 業
三、三 心
1 至誠心
2 深 心
3 回向発願心
四、五念門
1 礼 拝
2 讃 歎
3 観 察
4 作 願
5 回 向
五、四 修
1 恭敬修
2 無余修
3 無間修
4 長時修
六、三種行儀
1 尋常行儀
2 別時行儀
3 臨終行儀
むすび
奥図の伝(六重 二十二件)
源空が目には 三心も五念も四修も皆
南無阿弥陀仏と見ゆるなり
結帰一行三昧、すなわち行と伝えます。
三重『領解末代念仏授手印鈔』(三祖記主禅師良忠上人作)
伝灯分
浄土宗三祖記主禅師良忠は、正治元年(一一九九)七月二十七日、石見国(島根県)三隅に誕生され、十一歳の時、三智法師の『往生要集』の講説を聞き発心し、十六歳、得度をうけて京都・奈良に遊学すること十七年、三十四歳、生国に帰り不断念仏を修しておられました。ある日、生仏法師より聖光上人のことを聞き、三十八歳、久留米の善導寺に行って二祖上人に面謁されました。時に二祖上人は七十五歳でありました。翌嘉禎三年(一二三七)八月一日『末代念仏授手印』一巻をお授けになりました。その奥書に、
(前略)法然上人浄土宗の義を以て、弁阿(二祖)に伝う。今又弁阿相承之義並びに私の勘文、徹選択集を以て、沙門然阿(三祖)に譲与し畢ぬ。これを聞かんの人、慥にこれを信じ、これを行じて、往生を遂ぐべし。仍て秘法を録するの状、手次を以てす
とお書きになられました。良忠上人は二祖上人の恩顧に感激し、この授手印の書を味読せられて後、「私はこのように領解しました」という『領解末代授手印鈔』一巻の書をまとめ、二祖上人に奉られました。二祖上人はこれをごらんになられ、浄土宗の法灯を記主禅師に「すべて授けおわった」と申されたのであります。
三祖上人は石見に帰り念仏弘通につくされましたが、寛治二年(一三四八)、五十歳の春、関東に赴かれ、法門興隆につくして多くの門弟を養い、鎌倉の大本山光明寺を創立、弘安九年(一二八六)、八十九歳にして入寂されたのであります。
正説分(必ず往生できると思いとりて)
二重『末代念仏授手印』に説く安心・起行・作業等は、すべて称名念仏の一行に帰するという浄土宗義を自分のものとして、お念仏にはげむことを領解せられたのであります。
『一枚起請文』の「ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、疑いなく往生するぞと思いとりて申すほかには、別の子細候わず」の文を、ありがたくいただくのであります。
四重『決答授手印疑問鈔』(三祖記主禅師作)
伝灯分
上総国(千葉県)周東に天台の学僧在阿という人があって、二祖上人の授手印をよんで念仏門に入っておられました。生来病身であった在阿は、自分の余命の短いことを悟り、授手印についての疑問をあげて記主禅師に質問されたのであります。これに対し、明快に答えられたのがこの『決答授手印疑問鈔』であります。
正説分(もはや一点の疑いもなく)
記主禅師は、この時五十九歳になられ、「目くらく手ふるう」と伝えられる病体でありましたが、在阿の求道の志の深いことを知り、一々の疑問に対して、明らかに答えられたので、もはや一点の疑いもなく、在阿はこの教えをいただいたのであります。したがって、この四重は「証」と伝えます。
罪悪の凡夫は、煩悩強く、ややもすると願往生心が弱く、心の散乱することもあります。この凡夫の姿に対し、善導大師は二河白道の譬えをもって、常に念仏すれば、弥陀・釈迦のお護りによって往生ができると説いておられるのであります。三祖上人は、特に二河白道の譬えを在阿に示されたので、左に掲げておきます。
二阿白道の譬え 向阿上人作(西要鈔)
たとえば人ありて、にしにむかいて、ゆくさきを見れば、南に火の河もえ、北に水の河ながれたり。なかをわたりて、いささかのしろきみちあり。その二の河のおおきさは、そこもなく又ほとりもなし。このしろきみちのひろさは、わずか四、五寸ばかりなり。足ふみ立てんほどだにも、あるかなきかのみちなれば、ただおしなべて河とのみ見えたり。つやつやわたりうべき心地もせず、いわんや、なみはひまもなくたつ。みちはいつとなくうずもれがちなり。いずくをか、足にもまかせん。いかでか渡らんとも、おもいよりける。渡らばさだめてしぬべしと、おくしはてていたれば、東の岸に人の声ありて、ただそのみちをわたりてゆけ、くるしくばあらじとすすめ、西の岸よりは又ただきたれ、われよく汝をまほれば、みちほそくとも、水火の河には、おとすまじきぞと、よばうおとすなり。これをききて、さらばとおもいたつ。みちはあやうけれども、ひたすら、《釈迦》ここにやり、《弥陀》かしこよばうしるべばかりを、たのみにて、二つの河を、かえりみずわたるほどに、げにもかいがいしく、まおりたまいければ、ことなくて、西の岸につきぬ。よろこび、きわまりなし。
第五重『往生論註』(曇鸞大師作)
凡入報土伝 凝思十念伝
伝灯分
曇鸞大師(四七六−五四二)は北魏の人で、中国における浄土教の初祖といわれます。中国仏教の中心地である五台山で出家し、五十一歳の時、洛陽において菩提流支三蔵(インド僧)より『観無量寿経』を授かり、直ちに浄土門に帰し、念仏を弘通せられました。晩年、玄中寺(山西省石壁山)に住したので玄中大師とも称せられ、その著『往生論註』はインドの天親菩薩の『往生論』を注釈されたものであります。
正説分
阿弥陀如来のみ名を十声称える「お十念」の強いはたらきは、造罪の人々も、命終の時に臨んで、み仏に■いたてまつり、浄土に往生できる(凡入報土)と確信せしむるので「信」と伝えます。それは次の理由によります。
一、三義校量(念仏と造罪との比較)
1在心−弥陀のはたらきは永遠なるもので、造罪は心の迷いからおきた仮の姿である。
2在縁−弥陀の大願業力の増上縁あり。
3在決定−仏名を称するが故に、念々の中に生死の罪を除き往生できる。
暗はれて のちの光と 思うなよ 光に晴るる 暗夜なりけり
二、業事成弁
極楽往生を願い念仏する者は、往生の因がととのえられる。
『観無量寿経』に「令声不絶具足十念称南無阿弥陀仏」とあります。
法然上人は、「われ浄土宗を立つる心は凡夫の報土に生まるることを示さんがためなり」と仰せられております。この元祖さまの大悲願は、『往生論註』に「筆点に題すべからず」として口授心伝による相伝となっておりますので、どうぞもっとも大切な密室道場において、伝灯師さまより直々にお授けをいただき、決定往生の安心をさだめ、生涯念仏を怠らず、往生浄土の素懐を遂げられんことを念願いたします。
三、道場分
懺悔会
懺悔偈(『四十華厳経』普賢行願品)
我れ昔より造れる諸の悪業は、皆無始の貪瞋痴に由る。身語意より生ずる所なり。
一切我れ今皆懺悔したてまつる。
広懺悔文(往生礼讃)
敬って白す。十方の諸仏、十二部経、諸大菩薩、一切の賢聖、及び一切の天竜八部、法界の衆生、現前の大衆等証知したまえ。我《某甲》発露懺悔す。無始より己来、乃至今身まで、一切の三宝、師僧父母、六親眷属、善知識、法界の衆生を殺害せること数を知る可からず。一切の三宝、師僧父母、六親眷属、善知識、法界の衆生の物を偸盗せること数を知る可からず。一切の三宝、師僧父母、六親眷属、善知識、法界の衆生の上に於いて、邪心を起せること数を知る可からず。妄語をもって一切の三宝、師僧父母、六親眷属、善知識、法界の衆生を欺誑せること数を知る可からず。綺語をもって一切の三宝、師僧父母、六親眷属、善知識、法界の衆生を調■せること数を知る可からず。悪口をもって一切の三宝、師僧父母、六親眷属、善知識、法界の衆生を罵辱し誹謗し毀呰せること数を知る可からず。両舌をもって一切の三宝、師僧父母、六親眷属、善知識、法界の衆生を闘乱破壊せること数を知る可からず。或は五戒、八戒、十戒、十善戒、二百五十戒、五百戒、菩薩の三聚戒、十無尽戒、乃至一切の戒、及び一切の威儀戒等を破り、自ら作し他を教え、作すを見て随喜せること数を知る可からず。是の如き等の衆罪、亦た十方大地の無辺に微塵の無数なるが如く、我等が作れる罪も、亦た復た無数なり。虚空無辺なれば、我等が作れる罪も、亦た復た無辺なり。方便無辺なれば、我等が作れる罪も、亦た復た無辺なり。法界無辺なれば、我等が作れる罪も、亦た復た無辺なり。衆生無辺なれば、我等が劫奪殺害も、亦た復た無辺なり。三宝無辺なれば、我等が侵損劫奪殺害も、亦た復た無辺なり。戒品無辺なれば、我等が毀犯も、亦た復た無辺なり。是の如き等の罪、上は菩薩に至り、下は声聞縁覚に至るまで、知ること能わざる所なり。唯仏と仏とのみ乃ち能く我が罪の多少を知りたまえり。今三宝のみ前、法界衆生の前に於いて、発露懺悔したてまつる。敢て覆い蔵さず。唯願わくは十方の三宝、法界の衆生、我が懺悔を受け、我が清浄を憶したまえ。今日従り始めて、願わくは法界の衆生と共に、邪を捨て正に帰し、菩提心を発し、慈心をもって相い向い、仏眼をもって相い看て、菩提まで眷属し、真の善知識と作って、同じく阿弥陀仏国に生じ、乃至成仏せん。是の如き等の罪、永く相続を断って、更に敢て作らず。懺悔し己んぬ。至心に阿弥陀仏に帰命したてまつる。
今、懺悔偈・広懺悔文を拝読いたしましたが、私たちは自分の心に誓って懺悔(至心懺悔)し、また実際に声に出して懺悔(発露懺悔)をしたわけです。「一人一日の中に八億四千の念あり、念々の中の所作、皆これ三途の業なり」と『梵網経』に説いてあり、「凡夫の罪障垢穢の身は百千劫を経て洗えども、浄め難し。唯だ礼懺清浄の水のみあって、衆生罪業の垢を洗うべし」と『仏名経』にありますように、礼拝し懺悔すれば、心身ともに一点の汚れなく、罪障消滅して、阿弥陀如来のみ光に浴することができるのであります。
それは生死輪廻の無明、長夜の暗を一本の線香の火を頼りに歩き、ついにみ仏の下に往くことができ、光明の世界が展開したのに似ているところであります。
第四篇 伝道作法
第四篇 伝道作法 目次
一、説 教 八五
二、講 演 九二
三、法 話 九四
『浄土宗法要集』による伝道作法の次第に則り、各項目について布教上の法式を詳述する。
一、説教
控室(準備)
布教師の控室には、仏壇または床の間に本尊、お名号の掛軸を安置し、香華、灯燭、供物等の荘厳を行う。
白衣を着るときは、まず初めに足袋を履く。新しい足袋は、水につけて糊気を取っておくとよい。糊がついていると、上堂するとき内陣の床板で滑ることがある。
袈裟と法衣は、通常壊色を用いる。袈裟は、七条以上の如法衣で、天竺衣、南山衣のどちらでもよい。法衣は、黒衣、茶衣の袱紗衣、または直綴を被着する。特別法衣または地方の慣例によって顕色を用いることがある。壊色の法衣には、袴をつけないものとする。五重相伝会の場合、普通紫衣が用いられるが、古代紫がふさわしい。授戒会の時は壊色が用いられることもある。
十月一日より翌年四月三十日までは、白羽二重製の領帽を被着する。ただし、十月中は着用しない地方がある。夏の法衣は、六月一日より九月三十日まで被着する。
身支度が整ったならば、本尊前に香を焚き、三礼の後、坐して暫時、称名念仏する。その後、説相袱紗を開いて、稿本を中央縦に置く。袱紗の先端部分に紋がついているときは、紋が上端になるように開く。つぎに、手前、左右、前方をたたんで包み納める。他に、手前、左、右の順にたたむ方法もある。
喚鐘
布教師の出座準備が整ったところで、役僧は鐘所に行き、三宝を念じて撞木を執り、虚階一下して、「願諸質聖 同入道場 願諸悪趣 倶時離苦」の文を唱え、三通三下する。一通は、大から小に約四十下するもので、漸次速く打ち、終りに三下する。
上堂
引僧は、柄香炉に香を焚き、柄の下部彎曲部を右手で握り、左手で柄の中央部を、掌を仰向くように軽く持ち、香炉を前方にして、布教師の前に立って進む。役僧は、袱紗を説相箱に納め、肩の高さに持って布教師の後に従う。地方によっては、引■(金)が先進する場合もある。
布教師は、法服の威儀を正し、左手に日課数珠、または百八念珠を掛け、如意を右手を下に、左手を上にして、胸前に斜めに執持する。説相袱紗を自分で持つときは、両手で胸前に持つか、如意とともに持つときは、如意の上に執持する。
歩行は、左足から踏み出し、一・八メートルを五単歩で歩く。右折しようとするときは、左足の内側を右足先に、ほぼイ形になるようにしてから、右足を右方向に踏み出す。左折の場合は、右折に準じて反対に行う。
講場内では、木魚念仏を唱え、布教師を迎え待つ。この間に、内陣の左方(向って右方)より上堂し、本尊前焼香机前に至る。
仏前焼香
焼香するときは、自分の香盒を用いるのを本儀とする。左袂から取り出し、右手の親指、人指指で香木をつまみ、左掌を仰向けて右手を受け、額より上に至るように頂戴し、焚焼する。一回、二回または、三回する。
無言三拝
合掌して両足の指を爪立て、つぎに、左膝を立てて起立し、左足を引いて右足に揃える。左右の踵を少しはなして直立し、目は聖容を仰ぎ見る。つぎに両膝をゆっくり屈して、右、左の順に膝をつける。このとき必要に応じて袈裟の下部を右手で持ってもよい。袈裟を膝下に敷き込まないためである。つぎに、両臂、頭の順に床(畳)につけ、両掌を仰向けて耳朶のあたりまで上げ、やや、しばらく形を保ち、その後、合掌し体を起す。この礼を上品礼といい、三回行う。
登高座
仏前三拝の後、ゆっくり高座前に至り、如意を模様に両掌にはさみ、一回低頭し、礼盤上に着座、蹲居の形から、如意を高座上に置き、前方に押し進め、袈裟、法衣を捌き、まず左膝を立てて、高座の縁にかけ、つぎに右膝を高座上に上げ、左右膝を前進させ、最後に左膝を少し進めて正座し、袈裟、法衣の威儀を整え、如意を前卓右側に縦に置く。
役僧は、この間に説相箱を前卓に置く。役僧がない場合は、登高座の後、袱紗を高座前卓の説相箱に納める。
焼香
前記の仏前焼香の作法と同様。
開説相
説相箱に納められた袱紗の上端三角部分を前方に開き、右、左、手前の順に開く。または、右、左、前方の順に開く方法もある。つぎに合掌の後、割笏一下し、この合図により木魚念仏を停止する。
授与十念
「如来大慈悲哀愍護念」または、「令声不絶具足十念称」の文を唱え、「同唱十念」と発声してから、割笏一下し、十念を授ける。
開経偈
「無上甚深微妙法 百千万劫難遭遇 我今見聞得受持 願解如来真実義」の文を唱え終って割笏一下する。この偈の二句目から讃題を捧持し、香に薫じ、四句目の終りに頂戴する。
讃題
讃題を捧持して、「謹んで拝読す」または「敬って拝読し奉る」あるいは「謹み敬って拝読し奉る」と前文を唱え、その後、本文を拝読する。会場の広狭に応じて声の大小・高低・緩急に工夫がいる。
説教
本説に入り、作法に特別なことはないが、身振り、手振りが品位を保つよう注意する。
十念
「同唱十念」と発声し、割笏一下する。
閉説相
開説相と逆に、手前、左、右、前方上端をたたみ、包み納める。また、袱紗を手前、左、右の順にたたむ方法もある。
念仏一会
「光明■(遍)照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」と発声し、若干遍念仏を修し、この間に下高座する。あるいは同唱十念に終り、念仏一会、その間に閉説相、下高座する。
下高座
正座から、右膝、左膝を下げ、右足を礼盤上に着け、つづいて左足を下して蹲居し、如意を手前に引きよせ、礼盤上に着座する。つぎに役僧は、柄香炉を持って引僧し、本尊前に至る。説相箱を持つ役僧は後に従う。
無言一拝
仏前焼香の後、上品礼の威儀により一拝する。
下堂
柄香炉、布教師、説相箱の順序に、本堂内陣に向って左側より裏堂に入り、控室に退る。控室では本尊前に礼拝の後、袈裟、法衣を脱し終る。
二、講演
控室
室内の荘厳は、説教と同様とする。袈裟は五条とし、法衣は略衣でよい。通常は小五条、改良服、白衣、足袋、日課数珠、朱扇とし、洋服の場合は、伝道袈裟、洋法衣、日課数珠、朱扇とする。
入場
仏前焼香
三拝
登壇
開経偈
十念
講演
自信偈
十念
降壇
仏前一拝
退場
作法は、説教に準じる。入・退場に、引僧、先進があるときは、その作法による。
三、法話
上堂、三拝、焼香などの作法は、説教に準ずるが、袈裟、法衣は略衣でもさしつかえない。讃題も省略することが多いが、同唱十念は必ず行う。
(昭和57年度 浄土宗布教必携より)