現実直証とは現実の姿を直視して真実の相を「さとる」ことをいう。法然上人が求道修学に専心されていた時代は、平安末期鎌倉初期の社会争乱の時であった。そこに見られた人間とは、保元・平治の乱によって現れた、骨肉相食み私利私欲のために権力の奪取を争う人間であった。法然上人は、人間は本来本性として仏性を有するものであるが、現に生きる実体としての人間は我欲我執の煩悩的存在であるとし、保元・平治の乱は、これがたまたま政治権力闘争という形で表に現れたものにすぎない。と「さとら」れて、現に生きる人間の実体を煩悩具足の凡夫、罪悪生死の凡夫とされたのである。これは当時の天台宗や真言宗の教学が、煩悩即菩提を論じ、穢土即寂光土を説き、また現実をもって曼茶羅世界とする、すなわち観念的な世界を説いて、現実に妥協し、現実を肯定する教えであるに対して、現実に生きる人間悪を掘り起すことによって、自身が煩悩的存在であることを知らしめ、もって仏の教えに信順して生きる生き方を説くものである。現実に生きる人間が煩悩的存在であり、我欲我執のものであるということは、八百年前の法然上人当時の人間も、昭和の今日の人間も同じであって異なるところはない。しかし、現実の自己が煩悩的存在たることを知らず、自己の思うままにならぬことに不満を懐き、悩み苦しみ、時には社会秩序を乱さんとするがごとき行為に出ずるのが現実の人間である。これは我欲我執のあらわれである。それで法然上人は、人間が我欲我執のものたることを知らしめて、自覚反省の念をおこさしめるために、現実の人間を煩悩具足の凡夫、罪悪生死のものといわれたのであって、現実に生きる人間の真実の相を説かれたものである。そして、かかる凡夫が仏の照覧を仰いで仏とともに生きる生き方を説くのが、法然上人の念仏の教えである。
(昭和57年度 浄土宗布教必携より)