8.おわりに

 仏教の目的は、生死解脱にあります。聖道門はそのための方法として自力得道を説きますが、私達凡夫にはそれを成就することができません。私達凡夫は実体のない「悩み・苦しみ・悲しみ」等に執われてしまう存在であり、執着をなくすことによってのみ到達できる無相の境界と無縁の存在だからです。そういった私達凡夫のために、阿弥陀仏は四十八願を建立し、救済の場として有相の浄土を構えられたのです。
 不可言説であり無相である仏のさとりの境界を、凡夫に捉えられるように有相荘厳の形で示されたのが極楽浄土です。所求としての極楽浄土は、「如去(無分別智)」から「如来(無分別後智)」という、仏の智慧から慈悲への展開の中で成立しているのです。凡夫が生死解脱する方法としては、阿弥陀仏の選択本願である念仏をおとなえすることによって極楽浄土に往生させていただく以外の道はないとお示しくださったのが、法然上人の教えであることを再確認せねばなりません。極楽浄土は、悩み苦しみのない世界であることはもちろんのこと、先立たれた方と再会できる世界であり、私達が不退転の菩という、他者を導くことができる理想的な存在となれる世界なのです。また、有相である故に私達のおとなえした念仏が届く世界でもあるのです。

   【註】
〈1〉『聖典』四・四二一頁
〈2〉アルボムッレ・スマナサーラ『般若心経は間違い?』(二〇〇九、宝島社)四頁
〈3〉同 三九頁
〈4〉『印仏研究』三八-一
〈5〉『日佛年報』七六
〈6〉『新アジア仏教史03インドⅢ 仏典からみた仏教世界』(二〇一〇、佼成出版社)一五四~一五七頁
〈7〉平岡聡『大乗経典の誕生』参照
〈8〉『浄全』一・一一頁
〈9〉『浄全』一・五二頁
〈10〉『昭法全』二七一~二七二頁
〈11〉『正蔵』四八・二九八頁・上
〈12〉『正蔵』五一・二二〇頁・下
〈13〉『昭法全』四九頁。
〈14〉山口益氏稿「〈如来〉について─特に報身の意味に関して─」(『教化研究』七二、一九七四、真宗大谷派宗務所)三頁
〈15〉「同右」四頁
〈16〉「同右」五頁
〈17〉「同右」七頁
〈18〉『浄全』一・二五〇頁中
〈19〉藤堂恭俊著『浄土仏教の思想』四、一六〇~一六一頁
〈20〉『浄全』一・二三八頁下
〈21〉仏教思想研究会編『仏教思想11 信』(二〇〇〇、平楽寺書店)三一三頁、及び一七二~一七三頁
〈22〉『浄全』一・七〇三頁中
〈23〉『浄全』二・一頁・中
〈24〉『浄全』二・二頁・中
〈25〉『浄全』二・二八頁・上
〈26〉『浄全』二・四七頁・中
〈27〉『浄全』二・二頁・中
〈28〉『浄全』二・三八頁・上~中
〈29〉『浄全』二・三八頁・中
〈30〉『聖典』三・二四~二五頁
〈31〉本来、凡夫が享受できるのは、外用の功徳ということになるが、法然上人は万徳所帰を説き、内証の功徳をも私達が享受できるとしている点は重要である。
〈32〉『浄全』一巻、四~五頁
〈33〉『昭法全』七九頁
〈34〉ここで用いている「出出世間」という語は、無相である「出世間」の仏智の境界よりさらに有相(荘厳)の境界に出るという意味である。こういった用法は、望月信亨仏博士『略述浄土教理史』三〇頁にある「その浄土は後得智所生の出出世間善根の功能から現れて云々」という一説に基づくものである。
〈35〉『聖典』三・五〇頁
〈36〉『昭法全』七四頁
〈37〉『聖典』三・二二~二三頁
〈38〉『無量寿経』では、「神足」ではなく「神境」となっている。
〈39〉『聖典』四巻・四二五頁
〈40〉『聖典』四巻・三九五頁