7.阿弥陀仏の四十八願

『無量寿経』には、阿弥陀仏の四十八願建立について次のように説かれています。

・計り知れない昔、錠光如来が出現し、その後五十三仏が出現した。その次に出現された仏を世自在王如来という。
・その時に国王があり、世自在王如来の説法を聞き、無上菩提を求める心を起こし、王位を捨てて沙門となった。それを「法蔵比丘(菩)」という。
・法蔵比丘は世自在王如来に対し、どのような浄土を建立すべきか、また諸仏の浄土建立の因縁について説いてほしいと懇願する。
・世自在王如来は、法蔵比丘のために二百一十億の浄土の往生人の善悪や国土の勝劣を説き、法蔵比丘の願いのままに、それらを現じて示した。
・法蔵比丘は、世自在王如来の説く浄土をつぶさに把握し、いまだ諸仏が発こし得なかった究極の願を発こした。
・法蔵比丘の心は寂静じゃくじょうにして、執着心はまったくなく、一切世間に及ぶ者はなかった。そして五劫の間思惟して、衆生済度のために四十八の本願を建てた。
 ちなみに法然上人は『無量寿経釈』において、四十八願には抜苦与楽の義があるとし、
  大悲=抜苦=出離生死
  大慈=与楽=往生極楽
と説明されています(36)
 また『選択集』第三章において、四十八願は阿弥陀仏による選択であるとします。選択とは「二百一十億の仏国土の中より粗悪を選捨し善妙を選取する」ことであるとされています(37)。 第十八願(念仏往生の願)では、往生行として諸行を選捨して念仏の一行を選取されたのです。第十二願(光明無量の願)、第十三願(寿命無量の願)も阿弥陀仏の選択であるのです。
 ここでは以下、四十八願に誓われ成就している極楽浄土の勝相についてあげてみましょう。(以下、番号は第何願かを示す)
無三悪趣の願─極楽浄土に地獄・餓鬼・畜生は存在しない。
不更悪趣の願─極楽浄土に往生の後、三悪道(地獄・餓鬼・畜生)に戻ることはない。
悉皆金色の願─極楽浄土に往生したならば、みな金色となる。
無有好醜の願─極楽浄土に往生したならば、好醜の違いはない。
宿命智通の願─極楽浄土に往生したならば、宿命智(過去世の出来事を知る智)を得ることができる。
天眼智通の願─極楽浄土に往生したならば、天眼智(遙か遠くや未来を見通す智)を得ることができる。
天耳智通の願─極楽浄土に往生したならば、天耳智(遙か遠くの音を聞き取る智)を得ることができる。
他心智通の願─極楽浄土に往生したならば、他心智(他者の心を知る智)を得ることができる。
神境智通の願─極楽浄土に往生したならば、神境智(瞬時に自在に移動できる智)を得ることができる。
速得漏尽の願─極楽浄土に往生したならば、妄念を起こし、身に執着することはない。
住正定聚の願─極楽浄土に往生したならば、正定聚しょうじょうじゅ(さとりへの到達が定まった者)となることができる。
眷属長寿の願─極楽浄土に往生したならば、寿命は無量となる(衆生を済度するために願って生まれ変わる者は別である)。
三十二相の願─極楽浄土に往生したならば、三十二相という仏の勝れた好相を具足することができる。
必至補処の願─極楽浄土に往生したならば、「一生補処(菩の最高位)」という次の生において仏になることのできる位になれる。
供養諸仏の願─極楽浄土に往生したならば、自由自在に十方の諸仏を供養できる。
供具如意の願─極楽浄土に往生したならば、自由に仏に供養物を現出できる。
説一切智の願─極楽浄土に往生したならば、一切智を得てそれを説くことができる。
那羅延身の願─極楽浄土に往生したならば、強固で健康な体を得られる。
見道場樹の願─極楽浄土に往生したならば、道場樹を見て計り知れない功徳を得られる。
得弁才智の願─極楽浄土に往生したならば、経典を暗誦して内容を説き明かすことができる。
智弁無窮の願─極楽浄土に往生したならば、智慧をもって自在に教えを説くことができる。
国土清浄の願─極楽浄土は、十方の浄土を映し出せる清浄な世界である。
国土厳飾の願─極楽浄土は、多くの宝や多くの妙香によってあらゆる物が合成されている。
衣服随念の願─極楽浄土に往生したならば、妙服を思いのままに得られる。
受楽無染の願─極楽浄土に往生したならば、煩悩を断じた阿羅漢のように限りない楽を受けられる。
見諸仏土の願─極楽浄土に往生したならば、思いのままに十方の浄土を見ることができる。
諸根具足の願─極楽浄土に往生したならば、六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)が不具なことはない。
住定供仏の願─極楽浄土に往生したならば、みな三昧を得て心が散乱することがない。
具足徳本の願─極楽浄土に往生したならば、菩の行を修めて諸々の徳本を具足することができる。
住定見仏の願─極楽浄土に往生したならば、普等三昧(諸仏を等しく見る三昧)を得ることができる。
随意聞法の願─極楽浄土に往生したならば、願いのままに自然に法を聞くことができる。
得不退転の願─極楽浄土に往生したならば、不退転位に入ることができる。
得三法忍の願─極楽浄土に往生したならば、三法忍を得ることができる。
 続いて「浄土三部経」に説かれる極楽浄土の勝相について、主なものをあげてみましょう。
・阿弥陀仏が現に在して、説法されている。
・極楽浄土の衆生には諸々の苦はない。
・自然の七宝、金、銀、瑠璃、珊瑚、琥珀、しゃこ、瑪瑙めのうによって地ができている。
・地獄・餓鬼・畜生等の苦しみはない。
・春夏秋冬の四季の変化はなく、常に不寒不熱であり、和やかな世界である。
・七宝でできた諸樹で満ちあふれている。
・微風によって木々が揺れると妙法が奏でられ、それを聞く者は深法忍を得て不退転に至る。
・池の中に咲く華は、青色は青く輝き、黄色は黄に輝き、赤色は赤く輝き、白色は白く輝き、みな妙なる香りを放っている。
・諸々の鳥たちは、一日に六回和雅わげの音を出し、その声は五根・五力・七菩提分・八正道分の教えを説いている。
・極楽浄土は俱会一処の世界である(先立たれた方と再会できる)。
 このように極楽浄土は、一切の苦しみのない世界です。そして、往生した者は不退転の菩となることができ、衆生済度のために必要な六神通(宿命・天眼・天耳・他心・神境・漏尽(38))を得ることができるのです。私達凡夫は、娑婆においてさとりに至ることはできません。このことは、娑婆における凡夫が理想的なあり方に到達することができないということを意味します。浄土に往生するということは、生死輪廻の苦しみから解脱することですが、見方を変えるならば、私達凡夫は浄土に往生することによってのみ、理想的なあり方・理想的な存在(不退転の菩)になることができるのです。こういった認識は非常に大切ではないかと思います。その意味において『正如房へ遣わす御文』にある「ただかまえてかまえて同じ仏の国に参り合いての上にてこの世のいぶせさをも晴るけ、ともに過去の因縁をも語り、互いに未来の化導をも助けん事こそかえすがえすも詮にてそうろうべき(39)」 という文は、浄土での再会と往生後の菩としてのあり方について説いているものとして注目されるでしょう。
 また、法然上人が『要義問答』において、
く疾く安楽浄土に往生せさせおはしまして弥陀観音を師として『法華』の真如実相平等の妙理、『般若』の第一義空、真言の即身成仏、一切の聖教心のままにさとらせおわしますべし(40)
と述べられているように、浄土に往生したならば弥陀三尊が師となって直接私達を導きさとりへと導いてくださるのです。