6.法然上人の内証外用論の論理構造と有相の浄土
こういった教えを踏まえながら、法然上人は、『選択集』第三章には「勝劣の義」として、
初めに勝劣とは念仏は勝、余行はこれ劣なり。ゆえはいかんとなれば、名号はこれ万徳の帰する所なり。しかればすなはち弥陀一仏のあらゆる四智・三身・十力・四無畏等の一切の内証の功徳、相好・光明・説法・利生等の一切の外用の功徳、
皆悉く摂在せり。故に名号の功徳最も勝とす。余行はしからず、おのおの一隅を守る。これをもって劣となす(30)。
と述べられています。念仏が「勝」であるのは、阿弥陀仏の内証の功徳と外用の功徳が納められているからです(31)。 法然上人は「四智・三身・十力・四無畏等」を内証の功徳とし、「相好・光明・説法・利生等」を外用の功徳としています。『選択集』に説かれている内容は、
内証(内なるさとり)─四智・三身・十力・四無畏等
外用(救済の働き)─相好・光明・説法・利生等
ということになります。
『無量寿経』に、
そのときに、次に仏まします。世自在王如来・応供・等正覚・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏・世尊と名づく。 時に国王あり。仏の説法を聞きて、心に悦予を懐き、すなわち無上正真の道意を発し、国を棄て王を損てて、行じて沙門となる。号づけて法蔵という。高才勇哲にして、世と超異せり(32)。
と説かれているように、世自在王如来のもとで出家した法蔵比丘が阿弥陀仏の根源であり出発点です。法然上人の理解もこういった『無量寿経』の説示に基づいたものです。『無量寿経釈』に、
報身とは、前の因に報いて感得するところの身なり。─中略─ 凡そ万行の因に答えて万徳の果を感ずること、依因感果、華の果を結ぶが如し。業に酬いて報を招く、響の声に随うに似たり。これ則ち法蔵比丘実修の万行に酬いて、弥陀如来は実証の万徳を得たまえる報身如来なり(33)。
とあるように、法蔵比丘が万行の因に報いて報身としての阿弥陀仏となったのです(当然のことですが、法然上人は報身である阿弥陀仏の根源に法身を想定していません)。
したがって阿弥陀仏の功徳成就は「法蔵比丘→内証→外用」という順序によって理解することができます。この流れは、以下のように置き換えて考えることも可能です。(前述した「如去」と「如来」は、如去=内証・如来=外用となります)
は「有相」執着の境界にあった法蔵比丘が「無相」の境界に入り、その後衆生救済のために四十八願を成就し「有相荘厳」を顕すことを示すものです。は「分別智」の世界にあった法蔵比丘が「無分別智」の境界に入り、その後衆生救済のために「無分別後智」を出すことを示しています。は、「世間」にある法蔵比丘が、「出世間」の境界に入り、その後衆生済度のために出世間の境界からさらに出るので「出出世間」であることを示しています(34)。
このうちAは有漏であるのに対して、BとCはいずれも無漏です。すなわちAからBへの展開は「有相(執着)・分別智・世間」等の有漏の迷いの世界から、Bの「無相・無分別智・出世間」という仏智の境界に入ることを示すものなのです。それが「有相(執着)→無相」「分別智→無分別智」「世間→出世間」ということなのです。つまり、AからBへの展開自体は、有漏から無漏への転換ということができるのです。したがって、Bは執着・差別を超えた無執着・無差別の境界です。Bの境界は無相かつ無念無想にして不可言説であるから、能所の関係は成立しません。その意味において凡夫(衆生)には到底捉えることができないものです。そこで阿弥陀仏は、衆生済度のためにBからCへの展開をみせるのです。「無相」である仏智の境界を凡夫に知らしめるために仏方便として「有相荘厳」を出すのです。「無相→有相(荘厳)」という展開は「無分別智→無分別後智」「出世間→出出世間」という展開でもあるのです。その意味において四十八願は、凡夫を済度するために立てられたものであることは当然ですが、無相である仏のさとりの境界を凡夫が能所の関係で捉えられるようにするために建立されたものとも言えるのです。そして、その四十八願の成就によって初めて可言説であり、凡夫に把握できる極楽浄土及び阿弥陀仏が出現したのであり、済度の場としての極楽浄土、救済者としての阿弥陀仏が実現したのです。すなわちCにおいて顕された「有相(荘厳)」は、仏のさとりの内容を踏まえた有相ですから、有漏の境界Aの有相とは質的に異なる「勝義の有相」なのです。
このように、純粋浄土教の祖師達は、無相・不可言説の境界に入ることのできない凡夫のために、阿弥陀仏が凡夫に捉えることが可能な救済の場としての有相の極楽浄土を構えたと解釈されているのです。この点は、浄土宗において極楽浄土の有相性を考える上で極めて重要なことです。かつて藤堂恭俊台下は極楽浄土の有相性について「凡夫の性である執着を、済度のために阿弥陀仏が逆手に取る」という趣旨の説明をされたことがありますが、正しく指方立相の極楽浄土は、私達凡夫が無執着の境界に入ることができない故に阿弥陀仏が発願し成就されたものなのです。法然上人が『選択集』第八章において、
すなわち彼の無漏無生の国に入って、永く不退の位を証悟することを得んやと(35)。
としているのは、極楽浄土が有相でありながら「無漏無生」であることを言い表したものですから、その有相性は執着の段階のものではなく、あくまでも無漏の境界にあっての有相(荘厳)なのです。