5.曇鸞・道綽・善導における無相から有相への展開
次に、曇鸞大師・道綽禅師・善導大師における無相から有相への展開についてみてみましょう。
『往生論註』巻下には、「広略相入」について、
略して入一法句を説く故に。上の荘厳十七句と、如来の荘厳八句と、菩の荘厳四句とを広とす。入一法句を略とす。何が故ぞ広略相入を示現する。諸仏菩に二種の法身あり、一には法性法身、二つには方便法身なり。法性法身に由て方便法身を生じ、方便法身に由て法性法身を出す。この二法身は、異にして分つべからず、一にして同ずべからず。この故に、広略相入して統るに法の名を以てす。菩もし広略相入を知らざれば、すなわち自利利他することあたわず(18)。と説かれています。
法性法身=理智冥合=法性の理を証得した仏(般若の慧)=阿弥陀仏の智慧ということになります(19)。「法性法身によりて方便法身を生じ、方便法身によりて法性法身を出す」という一説は、「阿弥陀仏の無分別智によりて浄土の荘厳(無分別後智)を生じ、浄土の荘厳によって阿弥陀仏のさとりの内容(無分別智)は具現化される」という意味に解することができるのです。
方便法身=荘厳功徳成就相=仏の利他の働き(方便の智)=浄土の荘厳
いかなるをか如実に修行せずして、名義と相応せずとする。いわく、如来はこれ実相身、これ為物身と知らざればなり(20)この「実相身」と「為物身」については、
実相身─悟無生法忍─真実・清浄─達如則心行寂滅(自利)─自内証(慧)─光明と解釈することができます(21)。「実相身」は阿弥陀仏が無生法忍をさとったことを示すものであり、その境界は真実・清浄であり無相です。それに対して衆生済度のために四十八願を修起し仏方便として有相荘厳を表した身を「為物身」とするのです。
為物身─四十八願修起─方便・荘厳─通権則省衆機(利他)─外用(慈悲・本願)─名号
問うて曰く、大乘の諸経に依るに、みな無相はすなわちこれ出離の要道なり執相拘礙は塵累を免れずと云う。今衆生を勧むるに穢を捨てて浄を道綽禅師は、大乗の諸経によるならば無相こそが出離の要道であり、相に執われることは煩悩を免れないのではないかという問いをなし、その答えとして相には二種類あることを示します。すなわち、穢土の迷いの相に執着することを「縛」とし、浄土往生を願うことは相を取るといえども「解脱」であるとしているのです。そして、浄土は相を取るといえども執着ではなく、浄土の相は「無漏の相」「実相の相」であるとするのです。この「無漏の相」「実相の相」という表現は、極楽浄土が単なる有相でなく、仏智の境界より示された勝義の有相であることを示したものです。忻 しむ、是の義いかん。答て曰く、此義類せず。何ぞとは、凡そ相に二種あり。一には五塵欲境に於いて妄愛貪染し、境に随て執著す。これらのこの相を名づけて縛となす。二には仏の功徳を愛して浄土に生ぜんと願ず。これ相と言うと雖も名づけて解脱となす。─中略─ 故にこれ相を取ると雖も、まさに執縛とすべきににあらず。また彼の浄土に言う所の相とは、すなわちこれ無漏の相、実相の相なり(22)。
ひそかに以れば真如広大にして、五乗も其の辺を測らず。法性深高にして、十聖もその際を窮むることなし。─中略─ ただし以るに、と述べ、真如は広大にして、五乗であってもその辺際を測ることができず、法性は深高にして、十地の菩であってもその辺際を窮めることができないと指摘します。そして衆生は、仏性を具足しているにも関わらず、それを顕現させることができないと述べています。垢障 覆うこと深ければ。浄体顕照するに由し無し(23)。
と述べられています。仏道修行には八万四千の法門があり、縁に随う者は皆解脱を蒙るのですが、衆生(凡夫)は障りが重くさとりを得ることが非常に困難だとし、教えの利益はたくさんあるものの、凡夫は八万四千の法門をあまねく手にとって把握することができないと指摘します。そのため娑婆の化主である釈尊は韋提希の要請に基づいて浄土の要門を広く開き、安楽の能人たる阿弥陀仏は四十八願を顕彰されたと述べています。心 に依って勝行を起こすに、門、八万四千に余れり。 漸頓すなわちおのおの所宜 に称 うをもって、縁に随う者、すなわちみな解脱を蒙る。然るに衆生、障り重くして、悟りを取る者明らめ難し。教益多門 なるべしと雖も、凡惑徧攬 するに由し無し。たまたま韋提請 を致して、我れ、 今安楽に往生せんと楽欲 す。ただ願わくは如來、我れに思惟を教えたまえ、我れに正受を教えたまえというに因って、しかも娑婆の化主 は、その請に因るが故に、すなわち広く浄土の要門を開き、安楽の能人は、別意 の弘願を顕彰したまう(24)。
これ弥陀の本国は四十八願よりす。願願みな増上の勝因を発す。因に依って勝行を起こし、行に依って勝果を感じ、果によって勝報をと述べています。極楽浄土は四十八願によって建立されたものであり、因によって勝行を起こし、行によって勝果を感じ、果によって勝報を得、報によって極楽を構え、楽によって悲化を顕し、悲化によって智慧の門を顕開するとしています。そして阿弥陀仏の悲心は尽きることなく智も窮まることなく、この悲智を双行して広く甘露を開いて、衆生を摂するというのです。この「悲化によって智慧の門を顕開」と「悲智双行して即ち広く甘露を開く」という表現は、阿弥陀仏の慈悲によって仏の智慧の境界が開き示されることを言い表したものということができます。すなわち、四十八願(悲)により有相荘厳の極楽浄土が建立され、凡夫はそれによってのみ仏の智の境界を知ることが可能となるのです。つまり、無相であるさとりの境界は、執着を離れ無念無想の境に達してのみ入ることができるのですが、凡夫にはそれができません。そういった凡夫のために阿弥陀仏は四十八願を建立され、その本願の成就によって有相の浄土が構えられ人格的な救済者である阿弥陀仏が出現したのです。『観経疏』定善義には、感成 し、報に依って極楽を感成し、楽に依って悲化 を顕通し、悲化に依って、智慧の門を顕開す。しかるに悲心尽ることなければ、智もまた窮 りなし。 悲智双 べて行じてすなわち広く甘露を開く。 ここに因って法潤 普く群生 を摂す(25)。
また今この観門等は、ただと説かれています。ここには、末法の凡夫が無相の境界に入ることができない故に、阿弥陀仏は西方に有相の浄土を構えられたことが明確に示されています。これが「指方立相」の浄土なのです。方 を指し相を立てて、 心を住 めて境 を取らしむ。すべて無相離念を明さず。如來、懸 に知りたまう。末代罪濁の凡夫の相を立てて心を住するすら、なお得ること能(めた)わじ。何にいわんや、相を離れて事を求めば、術通 無き人の空 に居して、舎を立てんがごとしと(26)。