3.有相の浄土と凡夫の現実
『無量寿経』には、
仏、阿難に告げたまわく、法蔵菩今すでに成仏して現に西方にまします。此を去ること十万億刹なり。その仏の世界を名づけて安楽という(8)。
とあり、『阿弥陀経』には、
これより西方十万億の仏土を過ぎて世界あり。名づけて極楽という。その土に仏まします。阿弥陀と号したてまつる。今、現にましまして説法したまえり(9)。
と説かれているように、極楽浄土は西方十万億土に実在する世界です。法然上人は『逆修説法』六七日において「娑婆の外に極楽あり、我が身の外に阿弥陀仏ましますと説きて、此の界を厭い、彼の国に生じて無生忍を得んとの旨を明かすなり(10)。」 と述べ、「娑婆即浄土・己心(こしん)の弥陀」を否定し、娑婆は穢土であり、極楽浄土はこの娑婆とは別次元の世界であることを示し、阿弥陀仏は自己の中に内在するのでなくあくまでも救済者であることを明らかにしています。聖道門の宗派においては、無相・無執着といった境界に入ることを目指しますが、浄土宗においては有相の浄土を説くところに大きな特徴があります。それは何故でしょうか。
法然上人は、『選択集』第一章において『安楽集』を引用し、一代仏教を「聖道門」と「浄土門」に分類して説明をされています。「聖道門」とは「此土入証」を目指すものであり、浄土門とは「往生浄土(彼土入証)」を目指す教えですから、「聖道門=さとりの仏教、浄土門=救いの仏教」ということができます。
聖道門は「一切衆生悉有仏性」の教えに基づき、娑婆でのさとりを目指して行じてゆくことになるので、煩悩や凡夫性というものは、修行によって滅し乗り越えていけるという立場に立ちます。これは、娑婆において無相や無執着の境界に入ることができるという前提に立った教えです。これに対して浄土門では人間を「罪悪生死の凡夫」とみなし、自らの力によって煩悩が滅することはなく、凡夫は阿弥陀仏の本願力によって浄土往生させていただく以外に生死解脱の道はないと考えます。こういった違いは、人間観の相違に起因するもの以外の何ものでもありません。法然上人が浄土宗開宗に至った背景には、人間は末法の世に生きる罪悪生死の凡夫であるという深い洞察があるのです。しかしながら、「人間=凡夫」という法然上人の人間観が、ややもすると軽視されているのではないかと感じざるを得ないこともあります。私達が凡夫の自覚を有することができるか否かは、浄土宗の教えを正しく受け止めることができるか否かという問題に直結するものでもあります。
仏教には「如実知見」という言葉があります。ありのままに物事を捉えるということです。ところが現実の私達は、自らの身に起こる様々なことをありのままに受け止めていくということができません。残念ながら、私達にとって娑婆の様々な現実は、不条理だと受け止めざるをえないものです。執着を離れ正しい智慧を有したならば、「娑婆=浄土」となるはずなのですが、実際にはそうなれないのです。それが凡夫というものです。
ここで、私達が凡夫以外の存在といいうるのか、聖道門の教えを取り上げながら考えてみたいと思います。禅の初祖の達磨大師の語より考えてみましょう。中国・宋代の禅僧、無門慧開(一一八三-一二六〇)の『無門関』には、次のようにあります(11)。
達磨面壁す。二祖雪に立つ。臂を断って云わく「弟子は心未だ安からず、乞う、師、安心せしめよ」
磨云わく「心を持ち来たれ、汝がために安ぜん」
祖云わく「心をもとむるに了に不可得なり」
磨云わく「汝がために安心しておわんぬ」
達磨大師の前に臨んだ二祖慧可は、自らの臂を断った上で、達磨に対して「私は心が安らかでないので、安心せしめてほしい」と請います。それに対して達磨は、「お前の心をここに持ってこい。そうしたならば、安心させよう」というのですが、慧可は心を持ってくることができず、心には実体のないことに気づき安心を得たという内容です。
続いて慧可と僧(居士良久)の問答をあげてみましょう。中国・宋代の禅僧、道原(生没年不詳)の『景徳伝灯録』には、次のように記されています(12)。
師に問うて曰く「弟子の身、風恙にまとわる。請う、和尚、罪を懺せんことを」
師曰く「罪を持ち来たれ、汝がために懺せん」
居士良久云わく「罪をもとむるに不可得」
師曰く「我れ、汝がために罪を懺しおわんぬ。よろしく仏法僧によりて住すべし」
僧(居士良久)は、慧可に対して「私の身は風恙の病にまとわれてしまっています。どうか私の罪を滅してください」と頼みます。すると慧可は、僧に対して「罪を持ってきなさい。そうすれば清めてやろう」といいます。それに対して僧は「罪に実体はないので、持ってくることはできない」と気づいたという話です。
ここにあげた二つの話は、いずれも師が迷いの中にある者に対して「心」や「罪」に実体がないことを説き、執着心が生み出した煩悩によって苦しんでいるだけであることを気づかしめ、執着に苛まれている者が、本来それには実体がないことに気づき執着を捨て去り、無執着の境地へ到達し開悟したというものです。
このお話にありますように、私達の心はもちろんのこと、悩み・苦しみ・悲しみ等にも実体はありません。これは、仏教において示される真理です。ところが、問題となるのは実体がないという教えを聞いたとしても、大多数の人々はそれらを実体的に捉え、悩み苦しむのが現実だということです。このことは、
聖者=「悩み・苦しみ・悲しみ」等に実体がないという道理によって心の闇が晴れ渡り、開悟できる人。
凡夫=実体のない「悩み・苦しみ・悲しみ」等に執われる人。
と整理できます。少なくとも日々の生活の中で「悩み・苦しみ・悲しみ」等を感じるということは、実体のないそれらに執われていることに他なりません。したがって、私達は常に実体のないものに執われており無執着の境界へ入れない存在なのであり、凡夫以外の何ものでもないことになります。要は「悩む」という行為自体が凡夫の証であるのであり、大多数の人々は悩みに苛まれた日々を過ごしている凡夫なのです。
つまり、凡夫とは本来実体のないものを実体視し、それに執着してしまう存在であり、それは私達の現実を直視した上で語られていることを忘れてはならないのです。
それ故に法然上人は、『往生大要鈔』において、
末法のこのごろをや下根のわれらをや、たとい即身頓証の理を観ずとも真言の入我々入阿字本不生の観、天台の三観六即中道実相の観、華厳宗の法界唯心の観、仏心宗の即心是仏の観、理は深く解は浅し。かるが故に末代の行者その証を得るに極て難し(13)。
と述べられているのです。法然上人は、末法の世に生きる私達の機根が劣り「阿字本不生の観・中道実相の観・法界唯心の観・即心是仏の観」がいずれも理は深いといえども解することができず、証を得ることが極めて難しいことを明らかにしています。これらの観は、その語は異なっているものの、いずれも執着を離れ無相の境界に入ることを目指すものですが、凡夫は「執着を離れられず、無相の境界に入ることができない」のです。これが浄土宗における根本的な人間認識なのです。
私達は、凡夫が娑婆において「無執着・無相」の境界に入れないという課題を背負っていることを踏まえねばなりません。そして、その凡夫とは、私達一人一人に他ならないのです。では、私達はどうしたら良いのでしょうか。そこに登場するのが、仏が凡夫を済度するために、凡夫の側に近づくという教えなのです。