2.仏説としての「浄土三部経」
「浄土三部経」を読解する上で重要なことは、その教えが仏説であるということを改めて肝に銘じるということです。大乗経典については、古くはインドにおいて非仏説ということが指摘され、日本においても江戸時代の思想家富永
仲基(一七一五-一七四六)からはじまり、
明治時代の仏教史学者村上
専精(一八五一-一九二九)といった人達によって大乗非仏説論が展開されました。また、最近の日本においては、上座部の僧侶から大乗非仏説論が強く主張されています。
本稿の直接的な課題ではありませんが、実際にそういった本がかなり売れており、多くの人達に影響を与えていることは事実であり、こういった実状を認識しておくことも、布教を行う上では大事なことだと考えられますので、代表的なものをあげてみましょう。
アルボムッレ・スマナサーラ氏は、著書『般若心経は間違い?』で次のように述べています。
『般若心経』をはじめとする大乗仏教の経典は、お釈さまが涅槃に入られてから数百年後、その直接の教えから一部を抜き出して、その人なりの能力で深い意味を表現しようとした宗教家たちの文学作品です(2)。
また、浄土経典についても次のように述べています。
有名な菩の誓願は、浄土経典の一つ『無量寿経』に説かれる法蔵菩の四十八願というものです。これがずーっと以前に成就していて、法蔵菩は阿弥陀如来というブッダになっているので、現世の人はただ「阿弥陀仏」の名を称えれば(正確には念じれば)、極楽浄土に生まれ変われるんだよ、というのです。「お釈さまが降誕されたのは、この阿弥陀如来の存在を伝えるためなのだ」と、浄土系の宗派の人々は説明するのですが、ここまでくると、もうお釈さま本来の教えは原形をとどめておらず、ただブッダという名前が新しい宗教の教義に使われただけでないか、という感じもします(3)。
つまり、大乗経典は文学作品であり、浄土教は仏教ではないと主張しているのです。こういった理解に立つならば、私達浄土宗は、仏説でないものを仏説と称し、単なる人師の造った架空の仏である阿弥陀仏、架空の世界である極楽浄土を説いているということになります。こうした指摘については一々反論する必要はなく、等閑視すべきであると考える方もいるかもしれません。けれども、この説のままですと浄土宗の教えそのものが砂上の楼閣となってしまいます。極楽浄土や阿弥陀仏の存在を科学的に証明することはできませんし、またそうすべきものでもありません。問題の核心は、大乗経典、なかんずく「浄土三部経」が単なる人師の説なのか、仏説という価値を有するものなのかという点にあります。この問題は、非常に重要なことでありますので、大乗経典をどう捉えるべきなのか先学の論を紹介しておきたいと思います。
『俱舎論』研究の世界的権威でもある、佛教大学教授の本庄良文先生は「阿毘達磨仏説論と大乗仏説論(4)」 及び「経の文言と宗義─部派佛教から『選択集』へ(5)」 という論文を記されています。その中で本庄師は、まず、南伝仏教においては経蔵(経典)よりも論蔵(経典の解説書)が重視され、それが無条件に仏の直説とされていることを指摘します。そして部派仏教の仏説の定義について次のように整理されています。
「釈尊の教えには了義(言葉通りに受け止めるべき教え)と未了義(裏に隠された衆生救済の意図を読み取るべき教え)があるという論理を用い、論蔵の権威を高めるためにそれを仏説とした」
「釈尊の教えには、失われた(=隠没した)ものもあるが、論蔵の理論の中で、現存する経典に説かれていないものは、隠没した経に説かれていたのを阿羅漢が三昧に入って、特殊な智慧で回復せしめたものという理論によって成立している」
「たとえ釈尊によって説かれたものでなくても法性(真理)に適えば仏説であるという理論が用いられていた」
ことを指摘されています。つまり、部派仏教(上座部)においても釈尊以外の人物が宗教体験として仏の説法を聞いたものや真理に違わないものを、仏説とみなしているのです。これらの点から本庄先生は、こういった部派仏教の仏説論が大乗仏教興起の理論的基盤を提供したと結論づけられています。
また、東京大学名誉教授の高崎直道先生は、仏典が「如是我聞」で始まることが大乗経典を仏説と認めることを可能とした根元であると指摘した上で、仏の言葉で聞き漏らしたものもありうること、仏が入滅前に言い残されたこともありうること、仏のさとりの内容は言葉には尽くせないこと、仏があえて秘めた教え
(密意)もあることをあげています。そして、これらを理由に大乗仏教は、自説が仏説であることを主張したが、これは部派仏教でも同じであると述べられています(6)。 また、京都文教大学学長の平岡聡先生は『大乗経典の誕生』の中で、上座部には極めて恣意的な解釈もみられる故に、「大乗仏教は、当初の仏教の姿に戻ろうとしたものである」と指摘されています(7)。
私達は、こういった近代仏教学の成果を踏まえつつ、大乗非仏説という批判に対応していく必要があります。
まず、上座部においても、仏説かどうかは「ブッタが説いたものと同等とみなすかどうか」に判断基準があったことや、釈尊以外の修行者が宗教体験によって教えを回復させたというのは、教えを新たに補ったということに他なりません。何よりも、すべての経典が釈尊滅後に編纂されているというのは、厳然たる事実です
私達が大乗経典を仏説とみなすのは、後の修行者が三昧の境地や仏智の境界に入り、そこで仏(釈尊)に出会い、仏の教えを聞き、それをまとめたものであるからです。また、上座部に伝わっていないといっても、隠没した経典があったことは広く知られています(私は、釈尊以外の仏を説く経典は、釈尊以外の仏を認めない上座部において意図的に排除された可能性もあると考えています)。したがって、「浄土三部経」に説かれる阿弥陀仏及び極楽浄土の教えは、けっして架空のものではなく、仏智の境界から示されたものであり仏説と言いうるのです。科学的な証明ができない以上、阿弥陀仏や浄土の実在性は、「浄土三部経」を仏説としていただくことにより担保されることを忘れてはならないのです。少なくとも「浄土三部経」を仏説と捉え、法然上人の解釈を真に依るべきものと見なさないのであれば、浄土宗は成立しないのです。