二、「じゃあ、またね」
如来大慈悲哀愍護念 同称十念ようこそのお参りでございます。暫くの時間、宗祖法然上人さまのみ教えをお取り継ぎさせていただきます。お楽にしてご拝聴くださいませ。
無上甚深微妙法 百千万劫難遭遇
我今見聞得受持 願解如来真実義
つつしみ敬って拝読し奉る。宗祖法然上人のご法語に曰く、
「会者定離は常の習、今はじめたるにあらず。何ぞ深く歎かんや。宿縁空しからずば同一に坐せん。浄土の再会、甚だ近きにあり。今の別は暫くの悲しみ、春の夜の夢の如し。信謗ともに縁として、先に生れて後を導かん。引接縁はこれ浄土の楽なり」と。(十念)
(「ご流罪の時門弟に示されける御詞」=『御法語 後編』第二十九章)
(詩の中で、天国で待っているご主人を思うタケさんですが、あちらの世界で待っている、と読ませていただきました)阿弥陀さまは私たち浄土宗徒のご本尊さまです。その阿弥陀さまが法蔵菩と名のられたご修行時代に、いずれはこの世を去らなければならないすべての人のために一つのお約束を誓われました。
大切な方との今生での別れほど辛く悲しいことはございません。声を聞きたい、また会いたいと思う気持ちは消えるものではございません。けれども亡くなった人は決して消えてなくなるのではない。心のどこかで、あちらの世界で待つ人になると信じているからこそ「どうかお護りくださいね」と、手を合わせてお願いをするのではないでしょうか。
私が仏となったならば、すべての人々が心から信じ願って私の極楽浄土に生まれたいと望んで、十声でもお念仏をとなえたならば必ず救い摂ろう。もし一人でも往生できない者があれば私は仏にはなりません。どうぞお救いください、と心からお念仏申す私たちを、一人も漏らさず阿弥陀さまの極楽浄土にお連れくださるお誓いであります。いずれ旅立つ私たちが迷わぬようにと手を差し出しておられるのですから、このお約束に身を任せてただただお念仏申すばかりなのです。
仏法は死ぬる法は教えはせぬ。死なぬ法を教えるのじゃ。今「往生」という字を辞書で調べますと、死ぬこと、どうにもしようがなくなること、との記載があります。また、自然災害等のニュースの中で「○○のために新幹線が立ち往生しております」と報道されたりもします。ただ、この意味で使われ出したのは今に始まったことではなく、江戸の昔より使われていることが徳本行者の言葉からわかります。
往生という字は、死ぬるという字は書きはせぬ。往き生まるゝと書くぞよ。
この通りに心得て、精出してお念仏を申さっしゃるがよい。 (『徳本上人勧誡聞書』)
会う者が必ず別れるということは世の定めであって、今に始まったことではありません。どうして深く歎くことがあるでしょうか。過去の因縁が確かなものであるならば、〔極楽に往生して〕同じの台に座ることができるでしょう。浄土での再会は間もなくのことです。今の別れは、しばしの悲しみに過ぎず春の夜のはかない夢のようなものです。信じることも謗ることも共に縁として、先立つ者が残された者を導きましょう。縁ある人を迎え取ることは浄土での楽しみです。この世での別れは定めであります。私たちの力ではどうしようもないことです。しかしながら法然上人は、共にお念仏を申すご縁にある者はお浄土で再会を果たすことをお示しくださいました。
(『法然上人のお言葉』総本山知恩院布教師会編)
露の身は ここかしこにて 消えぬとも こころは同じ 花の台ぞ朝露のように儚いこの身が、たとえどこで息絶えたとしても、あなたと私は必ずまた極楽のお浄土のの花の台でお会い出来ることでしょう。
先き立たば おくるる人を 待ちやせん 花の台に なかばのこしてという歌がございます。
ただ心を致して、専ら阿弥陀仏の名号を称念する、これを念仏とは申すなり。法然上人のお示しです。阿弥陀さまの御名を心を尽くしてひたすら声に出しておとなえすれば、一人も漏らさず大切な方々がいらっしゃる極楽のお浄土に救い取られて参ります。阿弥陀さまのお約束なのです。そして百人いれば百人すべてが極楽のお浄土で懐かしい方と再会を果たします。
ただ頼め 頼む心の あるならば
南無阿弥陀仏を 声に出せよ
同称十念