教諭を拝して


  
浄土宗布教委員会委員 小林 尚英

 私は学生時代、先生から「浄土宗の教えは一口にいって何ですかと」と問われたとき、答えることができませんでした。すると先生から「それは凡入報土ですよ」と言われました。その後「凡入報土」について調べていくと『法然上人行状絵図』六に、
  
我、浄土宗を立つる心は、凡夫の報土に生まるることを、示さむためなり(1)

とありました。それを現代語訳では、

私が浄土宗を立てた意趣は、凡夫が阿弥陀仏の報土に往生できることを示すためである(2)
とあります。この文の説明について布教委員会委員長、上田見宥氏は浄土門主への答申書のなかで、
法然上人のお言葉(心)が、我(法然上人)から我々(全浄土宗教師)に与えられたと認識したとき、全浄土宗教師の行動理念たるものと考えます。すなわち、「示さむ」という意思に基づく自行化他の行動、教化活動こそが浄土宗教師のつとめでありましょう。平成三十六年に浄土宗開宗八百五十年を迎えます。本宗の布教の布教方針は、約八百五十年前に法然上人が専修念仏の法を確信し、やがて世に布教されたように、開宗の教えである「ただひたすらに称名念仏を修する専修念仏」を伝えることにあり、その行動指針は「凡夫の報土に生まるることを示す」ことに尽き、法然上人のご法語を通じ、救われていく道を布教することであります。
とし、浄土宗の理想とする教師像は、「立教開宗のこころ」を伝える人であるとしています。そこで、法然上人がいう「凡入報土」とする箇所をみていくと、同じく『法然上人行状絵図』六に、
我、浄土宗を立つる心は、凡夫の報土に生まるることを、示さむためなり。もし、天台によれば、凡夫浄土に生まるることを許すに似たれども、浄土を判ずること浅し。もし、法相によれば、浄土を判ずること深しといえども、凡夫の往生を許さず。諸宗の所談、異なりといえども、凡(すべ)て凡夫報土に生まるることを許さざる故に、善導の釈義によりて、浄土宗を立つる時、すなわち、凡夫報土に生まるること現わるるなり (3)
とあって、浄土開宗の意図が「凡入報土」を示すことであり、同時に善導大師の『観経疏』により浄土立宗をしなければ「凡入報土」が明らかになることはないとしています。それによると天台宗の教えによれば、凡夫の往生が可能とする阿弥陀仏の極楽浄土は低い位の応身を教主とする凡(ぼん)聖(しょう)同(どう)居(こ)土(ど)という低次の位の浄土に過ぎないとしており、また法相宗の立場によれば、阿弥陀仏が建立した極楽浄土は高い位の報土(他(た)受(じゅ)用(ゆう)土(ど))に位置づけられてはいますが、往生の許されないものとして解釈されています。このように聖道門の立場からはどこまでも「凡入報土」が許されるものではないとしています。
 これに対して善導大師は、『観経疏』のなかで
問うて曰く、かの仏および、すでに報なりと言わば、報法は高妙にして、 小聖しょうすらのぼり難し。 垢障くしょうの凡夫云何いかんが入ることを得ん。答えて曰く、もし衆生の垢障を論ぜば、実に欣趣ごんしゅし難し。 正しく仏願に託して、以て強縁ごうえんるに由って、五乗をして ひとしく入らしむることを致す(4)。 といって、阿弥陀仏の本願力によって罪悪生死の凡夫でも報土往生が許されるとしました。法然上人が「凡入報土」とする根拠はこの文によっていると思われます。ここでは善導大師の本願力ということが前面に出てくるのです。法然上人はこうした善導大師の解釈を前面に打ち出して「凡入報土」を浄土宗義の基本とし、その教えを確立したのであります。
 かようなことから、『浄土宗大辞典』の「凡入報土」の項では、
法然は、凡夫の視点に立つ機辺の立場から阿弥陀仏の視点に立つ仏辺の立場へと仏教の構造を大きく転換し、ここにすべての人間が平等に救われる仏教を探し求めた法然の願いが結実することなったのである。
としています。「立教開宗」について石井教道博士は、
おもふに法然上人の新宗開立は啻獨ひとり佛教史上の一大異彩なるのみならず、また實にこれ世界宗教史上の一大権威であることをも知らねばならぬ。もしそれ西洋歴史を繙くならば、誰しも宗教改革者ルーテルの名を見出すであろう。そのルーテルが叫んだ宗教改革の根本思想運動であった教会の教権を聖書に移し、或は一般民衆を直ちに神に面接せしめ、或は制度の自由解放を称へた事等は、ルーテルよりも約三百五十年も前に生誕された我が宗祖法然に依ってすでに唱道された事項なのであった(5)。(原文ママ)
と、ルーテルより三百五十年も前に法然上人は宗教改革を行ったと人として讃仰しています。
 次に改宗の文にふれると、法然上人は一切経をご覧のたびに、これを見ておられましたが、特に注意して読まれること三度、ついに善導大師『観経疏』散善義の、「一心専念 弥陀名号 行住坐臥 不問時節久近 念念不捨者 是名正定之業 順彼仏願故(6)」という文に至って、末法の世に生きる凡夫は阿弥陀仏の名号をとなえれば、この仏の本願に乗って、間違いなく往生できるという道理を確信されたのです。それは承安五年(一一七五)の春、上人四十三歳の時であり、すぐさま諸行を捨てて、一筋に念仏の教えに帰依されたのであります。
 それでは、開宗以前の法然上人はどのような状況であったのか。その心境を探ってみると、自分のようなものは、とても戒・定・慧の三学を修められる器ではない。この三学以外に、この愚かな心に見合う仏の教えがあるのだろうか、自分の身に堪えられる修行があるのだろうかと思って、あらゆる智慧者にそれを求め、多くの学僧に問い尋ねたが、教えてくれる人もなく、示してくれる仲間もいなかった─。そのようなわけで、嘆きなげき経蔵(黒谷青龍寺の報恩蔵)に入り、悲しみかなしみ聖教に向かい、みずから開いて読んだところ、善導大師の『観経疏』散善義の「一心専念」の文に出会えた。すなわち全ての人々が救われる道を求め、経蔵に納められた一切の経典・書物を幾度も繙いていた法然上人が、そのなかで、
恵心の『往生要集』、専ら善導和尚の釈義をもって指南とせり。これにつきてひらき見給うに、彼の釈には乱相の凡夫、称名の行によりて、順次に浄土に生ずべき旨を判じて、凡夫の出難を、容易たやすく勧められたり(7)
といって『往生要集』の説示を契機として注目したのが善導大師の『観経疏』であり、とりわけ懇切に拝読すること三遍、この文に出会い、ついに自身のような凡夫の浄土往生が叶えられると確信を得たのであります。法然上人は、とくに末尾の「順彼仏願故」という五文字を重視し、そこに凡夫が報土に往生し得る道理を見出したのであります。この善導大師の釈文によってこれまでの仏教界の常識を覆す、底下ていげの凡夫が最易の念仏行によって最上の報土(西方極楽浄土)に往生できる、という論理を確立するに至ったのであります。
 その後は、我われのような無智の者は、ひたすらこの一文を尊重し、もっぱらこの道理を頼りとして、常に続けてやめることなく名号をとなえて、それを間違いなく往生できる行いにしようと考えたのであります。それゆえ「順彼仏願故」の文は、深く魂に染め込み、心に留めたのであります。この「順彼仏願故」について法然上人は『選択集』二章において、それは阿弥陀仏の本願に適うものだからであり、それゆえ念仏によって必ず往生ができるとしています。法然上人は『観経疏』の一文を見出し、「順彼仏願故」の五文字を根拠として称名念仏が本願の行であることを示したのであります。そして法然上人は開宗後の生活については、
上人、一向専修の身となり給いにしかば、遂に四明しめい巌洞がんとうを出でて、 西山にしやまの広谷という所に、きょを占め給いき、幾程無くて、東山吉水のほとりに、静かなる地有りけるに、彼の広谷の庵を渡して、移り住み給う。尋ね至る者有れば、浄土の法を述べ、念仏の行を勧めらる。 化導けどう日に従いて盛りに、念仏に帰する者、雲霞うんかのごとし。その後、賀茂の河原屋、小松殿、勝尾寺、大谷など、その居改まるといえども、 勧化かんげ怠ること無し。遂に誉れ一朝に満ち、益四海やくしかいあまねし。これ弥陀の一教、我が国に縁深く、念仏の勝行、末法に相応する故なるべし(8)
とあるように、法然上人は一向専修の立場となられたので、ついに比叡山を出て西山の広谷という所に住まいを定められ、それから間もなく、東山の吉水あたりに閑静な場所があったので、広谷の草庵から移転してそこに住まわれたというのです。そしてそこへ訪ねてくる者があれば、浄土の教えを説いて念仏の行を勧められ、教え導くことは日増しに盛んとなり、念仏に帰依する者はまるで雲霞のように多かった。その後、賀茂の河原屋・小松殿・勝尾寺・大谷などと、その住まいは変わったけれど、教化をおろそかにすることはなかった。とうとう上人の評判は国中に知れわたり、恵みは国全体にゆきわたった。これは、阿弥陀仏の教えがわが国と縁が深く、念仏というすぐれた行いが末法の世に適うからであります。
 最後に法然上人が浄土宗を開宗した年次についてふれてみます。上人自身が浄土宗を開宗もしくは立宗したことに関し、『一期物語』には「道綽・善導の意に依って浄土宗を立つ」 とあるのみで、自身では開宗の年次について明言していません。一般的には『法然上人行状絵図』六にある、
承安五年の春、生年四十三。立ちどころに余行を捨てて、一向に念仏に帰し給いにけり(9)
などの文によって、四十三歳のとき、善導大師の『観経疏』にある「一心専念」の文によって回心し、専修念仏の教えを立てて浄土宗を開宗したと見なしています。この、四十三歳のときに「一心専念」の文によって開宗したと明言するのは江戸時代になってからで、忍澂上人の『勅修吉水円光大師御伝略目録』 や懐山の『浄統略讃』が初めてとされています。現在の浄土宗にあっては、江戸期以来に則り、「回心イコール開宗」の立場に立って、法然上人四十三歳(一一七五年)の開宗説を採っています。

[註]
〈1〉『聖典』六・六五頁
〈2〉浄土宗総合研究所編『現代語訳 法然上人行状絵図』(二〇一三、浄土宗)八二頁
〈3〉『聖典』六・六五頁
〈4〉『聖典』二・一八五~一八六頁
〈5〉石井教道『改訂増補 浄土の教義と基督団』(一九九二、富山房書店)四~五頁
〈6〉『聖典』二・二九四頁
〈7〉『聖典』六・五六頁
〈8〉『聖典』六・五九頁
〈9〉『聖典』六・五六頁