四、浄土の再会
如来大慈悲哀愍護念 同称十念
無上甚深微妙法 百千万劫難遭遇
我今見聞得受持 願解如来真実義
つつしみ敬って拝読し奉る。宗祖法然上人のご法語に曰く、
「会者定離は常の習 、今はじめたるにあらず。何ぞ深く歎かんや。宿縁空しからずば、同一蓮に坐せん。浄土の再会、甚だ近きにあり。 今の別 は暫くの悲しみ、春の夜の夢の如し。信謗ともに縁として、先に生まれて後を導かん、引 摂 縁 はこれ浄土の楽 なり」
(十念)
(『平成新版 元祖大師御法語』後篇第二十九)
お寒い中、お参りいただきありがとうございます。どうぞお楽にお聞きいただきたいと思います。
先日、中学校の同窓会に二十年ぶりに出席することができました。受付をすませて席に着きましたら、同窓会の代表が「残念ですが、実は○○くんと○○さんが病気で亡くなりました。二人のために黙とうをしよう」ということで全員合掌して故人の冥福を祈りました。宴会が始まり「おう、久しぶりだな○○君か、元気にしてたか~」。久し振りに会った友達と楽しいひと時を過ごして「次の同窓会でまた会おうな」と再会できることを楽しみにして別れました。次回の同窓会も全員揃うことを願っておりますが、もしかしたら私が出席することができないかもしれませんね。
「会うは別れの始めなり」と申します。この世で出会ったどんなに愛しい人、親しい人でも、いつかは今生最期の別れが必ずおとずれます。
皆さん、日本人のストレスで一番は何だと思いますか。個人的には、違う人があると思いますが、自分が大病したり、お金を損することではないそうです。実は、一番は「配偶者の死、恋人の死」、二番は「親族の死」、三番は「友人の死」と言われています。死別が一番辛く、苦しいということです。どんな人でも永遠に一緒にいることができないことは、私も皆さんも頭では理解しておりますが、いざ愛しい人、親しい人が大病しますと、もしかしたら自分を置いて、あの人が亡くなるかもしれないと思っただけでも気が動てんしてしまいます。お念仏信仰に生きる人には、浄土の再会が約束されているのですが、たとえ信仰を持っておりましても、今生最期の別れに直面すれば、辛く、悲しく、苦しいものです。
先ほど拝読しましたご法語は、法然上人が七十五歳の時に四国にご流罪の直前、上人との別れを嘆き悲しむ関白九条兼実公に、浄土で再会ができることを示されたお
法然上人が浄土宗を開かれる以前の仏教は、比叡山や高野山、奈良などで僧侶になり厳しい修行をして悟りを得ようとするもので、それは「山の仏教」といわれる、庶民には手の届かないものでした。ところが法然上人のみ教えは、阿弥陀さまの本願を信じて、お念仏をとなえるだけで極楽浄土に平等往生できる。お念仏信仰は次第に広まっていきます。天皇さま、貴族、武家、庶民等あらゆる人たちがお念仏を喜びとなえるようになりました。そのことを快く思わない僧侶もおりました。何とか法然上人の説くお念仏を止めさせねばと、奈良興福寺の僧侶らが後鳥羽上皇さまに念仏停止の訴えを出します。折悪く、東山鹿ケ谷で別時念仏会の六時礼讃を修していた上人の弟子住蓮、安楽が上皇さまに使える女官松虫、鈴虫を上皇さまの許可なく出家させたのです。この事件で事態は悪化し上皇さまは激怒。弟子二人は死罪、上人も責任を問われて還俗、僧侶資格はく奪です。一般人の藤井元彦と改名させられて二月二十八日に四国へご流罪という重い刑が決定します。今の七十五歳ではありません。もしかしたらご流罪先で上人が亡くなられるかもしれません。弟子たちは嘆き悲しみ、心配しました(某大学教授が鎌倉時代の寿命を科学的に調べたら平均寿命は二十四歳だったということですから、七十五歳は現在の百歳位にあたるのではと想像します)。長老の法蓮房信空さまは、お体のことを心配されて「法然上人さま、表向きは、お念仏を弘めるお説教を止められたらどうでしょうか」と提言されますが、上人は「流罪を恨みとは思ってはならない。流罪のお陰で四国の人々に、お念仏を広めことが出来る。流罪は上皇さまより賜った御恩なのです」とおっしゃいます。またあるお弟子は「お念仏をしばらく止められてはいかがでしょうか」と申しますと、法然上人は「たとえ死刑になってもお念仏を広める」と宣言されたのです。ご自分のことは眼中になく、お念仏信仰を広めることに命懸けです。そのお言葉が万感胸に迫り弟子たちは涙を流されたのです。
ご流罪が決まり、法然上人を生き仏のごとく尊崇、帰依された関白九条兼実公さまは前年、次男の良経公が三十八歳で頓死なされた悲しみの癒える間もなく、上人の流罪で、失意のどん底にありました。兼実公は、上人を法性寺の小御堂にお招きして別れを惜しまれます。上人は兼実公に、
「会う者が別れるということはこの世の定めであって、今にはじまったことではありません。どうしてそんなに深く嘆くことがあるでしょうか。過去の因縁がたしかなものであるならば、浄土に往生して同じ蓮の台に座ることができるでしょう。浄土での再会は間もなくのことです。今日の別れは、しばしの悲しみに過ぎず、春の夜のはかない夢のようなものです。お念仏を信じるも謗るも、共に御縁があったればのこと。先にお浄土に生まれた方が後から来る人を導きましょう。親しくその人を導いて連れていくことはお浄土に生まれた者の楽しみの一つです」と諭され、お別れの間際に歌を詠まれました。
「露の身は、ここかしこにてきえぬとも、こころはおなじ花のうてなぞ」
兼実公、私たちの命は露のような、はかない身です。どこでどのようにして死ぬかはわかりませんが、お念仏をとなえれば必ず極楽浄土に往生し蓮の台の上でお会いすることができます、と念仏精進を勧められたのです。この二か月後、四月五日、五十九歳で兼実公は往生されました。
私の両親は癌で亡くなりました。先に母が癌になり余命半年の宣告でした。先生に相談して入院はできる限り短くしていただき、自宅療養にしました。母は激しい痛みで苦しみました。痛みが走ると額に溝のような皺をよせながら青息吐息で「なむあみだぶつ、なむあみだぶつ……」とお念仏をとなえておりました。おかげで三年の命をいただきました。平成八年十月三日、八十一歳で極楽浄土に往生しましたが、往生の間際に不思議なことがありました。三日間危篤状態で目を閉じていた母が目を開け私をジーと見つめます。いよいよ今生最期の別れが来たなと思いましたので、私も母をジーと見つめました。母の喉が渇いているように感じましたので、用意しておいた末期の水を脱脂綿に含ませ都合三回、母の口に持っていくと母は美味しそうに飲み、私を見つめ微笑んで往生しました。その時、私は、悲しかったけれど、反面喜びもありました。ああ、やはり法然上人のお念仏のみ教えは間違いなかった。母は癌という大病の中でも、お念仏をとなえてきたおかげで阿弥陀さまのお迎えをうけて極楽に往生したんだ。だから母とまた極楽浄土で再会できるよう私はお念仏をしようと思いました。
残された父は、母が極楽浄土に往生したと思っておりましたが、ガックリ気をおとしています。その母が「お父さんのことを頼む、お父さんのことを頼む……」と申しておりましたので、父が「俺は妻に先立たれたけれど、本当にみんなが大切にしてくれていい人生だった」と思ってくれるように親孝行して、人生を全うさせ、母が待っている極楽浄土に往生してもらいたいと思っておりました。ところがその父にも癌が見つかり余命半年と宣告されました。私は気落ちしましたが、すぐに気を取り直し、母と同じくほとんど入院させず自宅療養しました。お陰で四年の命を頂戴しました。療養中、父は母と浄土で再会したい一念でよくお念仏をとなえておりました。父も臨終の間際に目を開き見つめて話しかけてきました。「あ~あ~あ~」。なにを言っているのかはわかりませんでしたが、きっと「お世話になりました。ありがとう」と言ってくれたんだと思います。その後、すぐフッと息が切れ平成十二年五月十五日午後三時に八十五歳で往生しました。その時、父は大病の中でもお念仏をしてきたおかげで阿弥陀さまのお迎えを受けて母が待っている極楽浄土に往生したんだ、両親とも浄土で待っているから、この世だけの親子だけでなく、私も再会するために念仏精進をしていこうと思いました。
「先立たば、おくるる人をまちやせん、花の台の半ばのこして」という歌があります。先に往生した母は蓮の台の「半座を」残し父を待っていたと思います。今、きっと父母は浄土の同じ蓮の台に二人仲良く座っていることでしょう。
法然上人は「あみだ仏と申すばかりをつとめにて浄土の荘厳見るぞうれしき」と詠まれておられます。一筋にお念仏をとなえられたお陰で七十歳頃から阿弥陀さま、菩薩さま、お浄土の姿が目の当たりに拝める境涯に達しておられたようです。『観無量寿経』に「仏心とは大慈悲これなり、無縁の慈しみをもって諸々の衆生を摂するなり」と説かれています。
上人のみ心は阿弥陀仏さまのような大らかな心ですよ。お念仏を信じる人も、信じない人も法然上人を流罪にした人も御縁を大切にして、先にお浄土に往生した人が後から来る人を導いていきましょうとおっしゃっています。
今振り返ってみると、私が今日あるのも、先に往生された篤信の檀信徒、ご先祖、父母が極楽浄土から導いてくれているお陰だと思います。
仏教詩人坂村真民氏は人生について
二度とない人生だから まず一番身近な者たちに できるだけのことをしよう 貧しいけれど こころ豊かに接してゆこうと詩を残しておられます。
二度とない人生だから つゆくさのつゆにも めぐりあいのふしぎを思い 足をとどめてみつめてゆこう
(坂村真民詩集原文より)