三、善導大師の釈文を仰ぐ
如来大慈悲哀愍護念 同称十念
無上甚深微妙法 百千万劫難遭遇
我今見聞得受持 願解如来真実義
つつしみ敬って拝読し奉る。宗祖法然上人のご法語に曰く、
「当に知るべし、本誓の重願、虚しからざることを。衆生称念すれば、必ず往生を得の釈を信じて、深く本願をたのみて、一向に名号を唱うべし。名号を唱うれば、三心、おのずから具足する也」と。(十念)
(『平成新版 元祖大師御法語』前篇第二十)
本日は、浄土宗の教えにおける「往生」「浄土」という言葉の意味について、詳しくお話しします。その意味を正しく抑えることにより、日々の念仏のおとなえが、いかに大切であるかを受け止めていただけることと思います。どうぞよろしくお願いします。
まず、浄土宗は法然さまの教えであり、その法然さまの信仰上の師は、善導さまであることは、みなさまよくご存じのことでありましょう。
法然さまと、師である善導さまのご関係ですが、時・場所ともに大きな隔たりがあります。法然さまは十二世紀の方で日本、善導さまは七世紀、中国の方です。ですから、この世で私たちが出会い、会話をするような関係ではなかったのです。法然さまは、善導さまが残された書物を通じて、さらには高度な宗教体験において教えを受け継がれ、心を通わされた関係にあります。
善導さまは当時の人々から「阿弥陀さまの化身」とまで尊ばれていました。「化身」とは、阿弥陀さまが仮に人の身となって現れてくださったという意味であり、ゆえに善導さまのお言葉は阿弥陀さまのお言葉であると、人々は拝まれたのです。その善導さまを時空の隔たりを超えて、師と仰がれたのが法然さまです。今日の法話は、この善導さまと法然さまの関係を念頭においていただくと、みなさまのお耳に入りやすいことと思います。
では、最初に拝読しました讃題を説明いたします。まず、「当に知るべし、本誓の重願、虚しからざることを。衆生称念すれば、必ず往生を得の釈を信じて、」とあります。わかりやすく表現しますと、「『阿弥陀さまが立てられたお誓いはすでに実を結んでおられる。ゆえに人々が念仏をとなえれば必ず往生できる』という善導さまの解釈を信じて」と、法然さまがおっしゃっているわけです。
そして、「深く本願を頼みて、一向に名号をとなうべし。名号をとなうれば、三心、おのずから具足する也」と続きます。その意味は「深く阿弥陀さまの誓いを頼みとして、ひたすらに念仏をとなえるべきです。念仏をおとなえすれば三心という大切な三種の心が自然と具わるのです」とのお言葉です。善導さまのことを阿弥陀さまの化身であると尊崇する法然さまが、善導さまの解釈を引用されながら語っておられる構造が、おわかりいただけたことと思います。
ところで、今、お伝えしたなかに「本誓の重願」という言葉がありました。初めてお聞きになる方もあるかと思いますが、「人が真心をもって念仏をとなえれば必ず極楽浄土にお迎えくださる」という誓い、つまり「本願」のことです。加えて申しますと、この「本願」は、念仏をとなる人に対して、男女・貴賤などの分け隔てはもちろんなく、たとえどれほど重い罪を犯した人であっても、必ず浄土にお迎えくださる誓いでもあります。
たとえば、重い石は水に沈んでしまい、また、どこかに運ぶことも難しいものです。しかし、船に載せたならば沈むことなく、広い海を渡らせることができます。私たち人間がこの世において、いやそれ以前の遠い過去から持っている罪の重さは石のごとくであっても、本願の船に載せていただくならば苦しみの海に沈むことなく、必ず誰もが「往生」を、すなわち「極楽浄土」にお迎えいただけるのです。
以上、法然さまのお言葉を拝読し、お話を進めてきました。すでに「往生」「浄土」という言葉が何度も出てきました。ここで、冒頭に申し上げました、その言葉の意味をお話しします。また、そのことが浄土宗の教えを正しくお受け止めいただくことにもつながりますので、注意深くお聴きいただきたく思います。
私たちは父母の縁を通じて、人間としてこの肉体をいただき、この世を生きています。そして、いつかこの世を去らねばなりません。しかし、仏教はその期間だけでなく、前世、来世というたいへん長い時間の流れにおいて、「私」の存在を受け止める教えです。私たちには前世の記憶がないので、「前世などお伽(とぎ)噺(ばなし)にすぎない」と退ける人もおいででしょう。しかし、「記憶がない」からといって、「前世など存在しない」とはいえません。「前世を思い出すことができない」という考え方もあるのです。
仏教においては、現世にいたる今までの間に何度も生死を繰り返してきたと受け止めます。あるときは人間であったのか、動物であったのか、それすらもわかりませんが、その繰り返しであったと。そうしてその計り知れない時間の「おこない」(業)が今にいたり、人間としての今生の命をいただいています。だからこそ、この世の命を終えたら、もちろん次の世(来世)があるのは当然のことです。
仏教では「霊魂」という言葉はデリケートな立場で扱われますので、ここではあえて使いませんが、「私そのもの」ではいかがでしょうか。その人の持つ記憶や、行ってきた善いこと悪いことなどすべての業が「私そのもの」なのです。それが、前世・現世・来世の三世を貫いて存在し続けています。
この仏教の生死観が「六道をめぐる」、すなわち「六道輪廻」です。今、私たちは有り難くも人間として命をいただいていますが、それでも六道の輪廻のなかであり、残念ながら苦しみの境遇にあります。嬉しいこと、楽しいことも経験しますが、総じて考えれば苦しみや悲しみに満ちたものが私たちの人生ではないでしょうか。
我らは信心疎 かなる故に今に生死に止 れるなるべし。 過去の輪 転 を思えば未来も又かくのごとし。
(『念仏大意』聖典四・三四九)
いわんや無常の悲 みは目の前に満てり。いずれの月日を か終 りの時 に期 せん。
(『要義問答』聖典四・三七七)
この二つは法然さまのお言葉です。六道輪廻のなかにさまよう私たちの姿と悲しみを端的に表現されています。
この世を終えるときに「輪廻の縛り」から離れることができなければ、死後において何に生まれるのかも知れません。さらに怖しいことは、この世でのこと、すなわち愛しい家族との思い出、友人とともに培った大切な記憶などを思い出すこともできず、あたかもなかったかのごとく、次の世をさまよっていかねばならないのです。とても怖ろしいことだとお感じになりませんか。
しかし、法然さまは「救いの道」があるとお示しくださるのです。この世において、阿弥陀さまを信じて、素直に念仏をとなえるならば、たとえ、罪の重い人であっても、六道輪廻を離れて、必ず極楽浄土に生まれることができるとお教えくださるのです。そのことを「往生」と呼ぶのです。
なお、極楽浄土に往生することができれば「過去の記憶を知ることができる」と経典に説かれています。すなわち、この世での愛しい家族との思い出などを
ここまで申し上げたことを確認してみます。まず、「人が死ぬこと」を「往生」と呼ぶのではありません。念仏をとなえた人が、命終わるときに、輪廻を断ち切り、阿弥陀さまの国・極楽浄土に生まれることを「往生」と呼びます。
さらに、死後の世界を総じて「浄土」と呼ぶのではありません。阿弥陀さまを信じて、念仏をとなえた人が、その功徳によって命終わるときに生まれることができる世界を「浄土」と呼ぶのです。
だからこそ、私たちは日々に念仏をとなえることが大切なのです。念仏をとなえるからこそ、輪廻を離れる「往生」が叶い、この世での記憶を持続できる「浄土」に生まれることができるのです。
法然さま、善導さまは、厳しいご修行と長年の念仏生活から、阿弥陀さまや極楽浄土の存在を実感されたうえで、「本願」「念仏」「往生」「極楽浄土」の教えを説いてくださっています。
拙寺に
お家においても仏壇の前でお念仏の行に熱心であり、日常のお経は