二、深心

 
 
浄土宗布教師会関東地区支部 石川 邦雄
如来大慈悲哀愍護念  同称十念

無上甚深微妙法 百千万劫難遭遇
我今見聞得受持 願解如来真実義
つつしみ敬って拝読し奉る。宗祖法然上人のご法語に曰く
「はじめにはわが身のほどを信じ、後には仏の願を信ずるなり」と。(十念)
(『平成新版 元祖大師御法語』後篇第十)

 皆さま、こんにちは。「法話とお念仏の会」にようこそご参会くださいました。本日も、お釈迦さまの仏教のみ教え、法然上人のお念仏のみ教えに耳を傾けていただき、後ほどご一緒にお念仏をとなえさせていただきたいと存じます。
 ただ今拝読させていただきましたのは、浄土宗の宗祖法然上人の『御消息』というお手紙の中に出てまいります、阿弥陀さまのお導きを念じてお念仏をとなえる時の三つの心構えの一つ、「深心」について説かれたご法語でございます。「深心」は「深い」に「心」と書きます。深く信ずる心です。
 この深心には二つの側面がありまして、その一つが「我が身のほどを信じ」ということであります。これを「信機」と申します。「機」とは、この自分、自分という器という意味であります。信機は、自分という器のありのままを信ずる、認める、ということであります。自分自身に正直に向き合ってみると、自分という器は、何と浅はかで、浅ましく、煩悩からのがれることのできない愚かな存在なのかと思い至って……ということであります。
 二つ目は「仏の願を信ずるなり」であります。こちらは「信法」と申します。法を信じる、教えを信じるという意味ですね。自らの愚かさ、いたらなさにとことん向き合ってみる。その上で、『無量寿経』に説かれるみ教え、「仏の御名をとなえる者は、どんな人でも救い導いてくださる」という阿弥陀さまのお誓いを堅く信じて……ということであります。「深心」、つまり信機信法について分かりやすく説かれたお言葉ですね。
 一般的に多くの宗教は、神やご神体、あるいは教祖さまと呼ばれる人など、自分以外の大いなる存在を信ずることがまず求められますが、仏教は、お釈迦さまご自身がそうあられたように、〈内省〉を大切にする宗教といってよいと思います。とりわけ、浄土宗を開かれた法然上人は内省を徹底された方ですね。だからこそ、仏教の大きな流れの中で一大変革を起こされ、誰もが平等に救われる信仰の道を見いだされ、お示しくださったのだと思います。
 さて、昨今、連日のようにテロのニュースが報道されますね。二〇〇一年九月十一日、アメリカで起きた同時多発テロ。二〇一五年十一月十三日、フランスのパリで起きた大規模なテロ。いずれも衝撃的な出来事でした。その他、目を覆いたくなるようなテロの惨事が、もはや日常化してまいりました。いつ、この日本でテロ事件が起きてもおかしくない、ともいわれています。困ったことですね。しかも、テロ行為のほとんどが、根底で宗教がからんでいるようです。
 私たち一人一人が、人間の弱さや愚かさを見つめるという謙虚な姿勢をもっていれば、また、だからこそ他者の痛みにも思いを寄せなければという心の働きをもっていれば、テロなど起こせるはずがない、と思いませんか。
 ちなみに私ども浄土宗では、二十一世紀を迎えるにあたって『二十一世紀劈頭宣言』というものを出しました。二十一世紀の大きな信仰生活指針、行動指針というべきものですね。皆さんも是非覚えておいていただきたいと存じます。お手元の資料をご覧ください。
 四項目からなっておりまして、第一番目が 「しゃ/rt>の自覚を」、 それにつづく三つの項目が 「家庭にみ仏の光を」 「社会にいつくしみを」 「世界にともいきを 」となっております。今の時代、あらためて仏教の慈悲の精神、共生の精神を周辺社会に、そして世界に伝え行動していかなければなりません。その基盤となるのが一つ一つの家庭であり、かつ一人一人の心にお釈迦さまの、そしてお念仏のみ教えの光が灯らなくてはなりません。さらにその根底に「愚者の自覚」が求められるのでございます。「機」を信じる=「信機」から大きな目標へと向かう宣言内容となっていますね。多少自画自賛になるかもしれませんが、時代に即した意義深い宣言だと思います。あとは実行に移せるかどうかですね。皆さまもよろしくお願いいたします。
 ここでもう一つ、皆さまの心にとどめておいていただきたいお話をさせていただきます。
 それは、昭和二十年八月十五日、日本は敗戦を迎え、その後、昭和二十六年、アメリカ・サンフランシスコにおいて講和会議が開かれた時のことでございます。この会議によって、アメリカをはじめとする連合国側と日本との間の戦争状態が、国際的なルールの上で正式に終結したことになるのでありますが、ここで関係諸国に対する日本の賠償責任もテーマになったのであります。
 その折、当時セイロンと呼ばれていたスリランカのジャヤワルデネという大蔵大臣、後にスリランカの初代大統領になった方でありますが、この方が、お釈迦さまが説かれた『法句経』の一節を引用し、各国代表の前で、仏教国日本に対する寛容を説いた上で、スリランカは日本への賠償請求を一切放棄すると宣言し、さらに一部の国が主張していた日本を分割統治するという案にも全面的に反対を唱え、各国代表に深い感銘を与えた、ということでございます。日本は、このジャヤワルデネ大臣の演説によって大変救われたのであります。このことは、日本国民の多くの人たちが忘れていますが、決して忘れてはならない出来事だと思いますね。
 その時、演説で引用した『法句経』の一節とは―

実にこの世においては、恨みに報いるに恨みを以てしたならば、ついに恨みのむことがない。恨みを捨ててこそ息む。これは永遠の真理である。
(『法句経』五番、中村元訳)

という、お釈迦さまが遺された短い詩のようなお経であります。
 昨今まさに、人間どうしの恨みあいの連鎖、テロと報復の応酬が繰り返される時代にあって、あらためて光をあて、心に焼きつけ、多くの人々に伝えていかねばならない誠に尊い教えではないでしょうか。
 この会の皆さまは大方ご承知かと思いますが、法然上人が九歳の時に、お父さま・漆間時国公は源内武者定明の夜襲をうけて非業の死をとげられます。今流に言うならば、テロで亡くなられた訳です。その臨終の枕辺で、勢至丸と呼ばれていた幼い法然上人に語られたお父さまのご遺言も、まさしく『法句経』の教えの通りでしたね。

なんじ、敵人を恨んではならない。もし仇を討てば、恨みは後々へと続いていくであろう。仏門に入って私の菩提を弔い、自らも悟りへの道を求めて歩んでいきなさい。

と、お伝記に記されております。
 武士の社会では仇を討つのは当然と考えられていた時代に、お父さまのこのようなご遺言があったからこそ法然上人のような偉大な宗教家が誕生した、といっても過言ではないと思いますね。
 なお、後にスリランカ大統領になられたジャヤワルデネさんの業績については、仏教学の権威・故中村元先生を代表とする顕彰碑建立推進委員会の方々により、平成三年、鎌倉大仏・浄土宗高徳院の境内に事蹟を刻んだ顕彰の碑が建てられました。大仏さまご参拝の折には、是非この顕彰碑もご見学いただきたいと存じます。
 ただいまお話ししましたことからも思いを新たにするのでありますが、お釈迦さまの教えは、懐の広さ、深さが他の宗教に比べ抜きん出ておりますね。私たちは、浄土宗のお念仏の教えを大切にすることはもちろんですが、お釈迦さまの教えの基本に立ち返ることも忘れてはなりません。
 冒頭の法然上人のご法語「我が身のほどを信じ―」ということにつきましても、私自身がお釈迦さまのみ教えの基本に照らし合わせ、自分を見つめ直すたびごとに、我が身のほどを痛切に感じさせられるのでございます。
 ここで、この会でも何回かお話しさせていただいておりますが、お釈迦さまのみ教えの中でもっとも基本的な〈三法印〉〈四諦〉〈八正道〉について、ざっと復習したいと思います。紙に書いてまいりましたので、どんな字なのか、どんな意味なのか、あらためてご確認ください。まず〈三法印〉です。
〈三法印〉
諸行無常……この世の全てのものは、とどまることがない。
諸法無我……この世の全てのものは、つながりあっていて、実体といえるものはない。
涅槃寂静……これらの真理を体得して、煩悩と迷いが消え去ったやすらぎの世界。

〈三法印〉というのは、お釈迦さまが悟られたこの世の三つの真理という意味ですね。この真理を体得した時に、悟りの境地が得られる、ということであります。
 つづいて〈四諦〉です。仏道修行において明らかに理解しておかなくてはならない四つのポイント、ということであります。

〈四諦〉
苦諦……この世は楽しいこともあるけれども、四苦八苦という苦しみからのがれることはできない。
集諦……その苦しみの根本は、誰にでも宿っている煩悩である。
滅諦……煩悩を自覚し、それを滅しきった時に、本当のやすらぎの世界がある。
道諦……本当のやすらぎの世界に至るために仏道修行がある。

 今日のこのお話は復習でもありますので、細かい解説は省かせていただきまして、次の〈八正道〉にまいります。〈四諦〉の道諦というところに位置するのが〈八正道〉であります。

〈八正道〉
正見……正しくものごとを見る。
正思……正しく考える。
正語……正しく語る。
正業……正しく行動する。
正命……正しい生活をする。
正精進…正しい努力をする。
正念……正しい反省と願い。
正定……正しい精神統一。

 いかがでしょうか。皆さま思い起こしていただきましたか。お釈迦さまのお悟りの世界は、永遠の真理といえるものだと思いますね。

 さて、ここから先の話は少々私事になりますが、お許しください。
 私は、横浜の浄土宗の寺に生まれました。物心がついた時からお寺の日常や行事を見たり聞いたりはしておりました。また手伝うということも多少しておりましたので、環境としては仏教にふれておりましたが、しっかりと仏教に向きあったのは、大本山増上寺で開かれた宗門の「少僧都養成講座」という修行道場でございました。青い盛りの二十代のことです。夏休みの期間をつかっての修行の場でございました。
 椎尾弁匡大僧正という有名なご法主のもと、何人もの立派な先生のご指導をいただきました。その中で、特に、お釈迦さまから法然上人に至る仏教の大きな流れを概説してくださったのは、服部英淳上人という先生でありました。
 先生は当時、大正大学の教授でいらっしゃいました。後に、勧学という浄土宗の学問の最高権威につかれた方でもございます。先生は、その数年前に胃ガンの手術をされ、もう少し頑張ると「制ガン会員」になれるんだ、とおっしゃっていました。ガンの手術をしても、まだまだ死亡率の高い時代でした。頑張っていらっしゃいました。
 その頃の増上寺は、もちろん今のように整備されていませんでしたね。広書院という講義所にあてられていた所は冷房設備などありません。そんな中、先生は術後の痛諄しさの残る痩身のお姿で、口もとには汗をにじませながら何日かにわたって諄諄と説いてくださいました。そのお姿は、ご修行の山を下りてこられたお釈迦さまを想わせるかのようでございました。道場生の私たちは、大方二十代の学生ないし社会人でしたが、いつしか私たちは、お釈迦さまのお弟子になったような心もちで講義に耳を傾けておりました。
 お釈迦さまのご生涯に始まり、〈三法印〉〈四諦〉〈八正道〉〈縁起〉など、基本的なみ教えを順を追って話をされ、やがて法然上人のご生涯やみ教えへと概説してくださいました。記憶は薄らいできておりますが、当時、新鮮に、また感動を覚えながらお話を聞かせていただいたという印象は、今でも強く残っております。周囲の仲間たちにも、同じような気持の高ぶりが感じられました。
 お寺の日常は、とかく「死者の供養」という側面が強く前面にあらわれますが、仏教の教えを順序立ててしっかりと学んでみると、それまで感じていたものはどこかに吹きとんで、お釈迦さまの教えに感じ入るばかりでありました。
 しかし、同時に、私の心の中に不安感、ないし自らの無力感というような、もやもやとした思いも湧き出してまいりました。
 お釈迦さまの教えは、先生のお話を聞けば聞くほど素晴しく思える。しかし、頭では分かったとしても、日々の生活の中で煩悩というものを、欲や、怒りや、迷いというものを消しさることなど、実際にできるのだろうか。いや、できるはずがない。〈八正道〉に示されるような正しい生き方が、本当にできるのだろうか。いや、到底できるはずがない。もやもやとした思いというのは、そんな心の葛藤でありました。
 講師の先生は、さすがでした。受講生の気持ちの高ぶりや湧き出しはじめた心の葛藤を見透しているかのように、法然上人とその教えについて話を進めていかれたのでした。
 法然上人は、社会が揺らぐ末法といわれる時代の仏教、また生活にあえぐ多くの民衆のための仏教、さらに周囲からは「智慧第一」と呼ばれながら、自ら「愚癡の法然房」とまで内省を深められ、ご自身も救われる仏教を求め、修行に修行を重ねられます。そして、ついに八万四千といわれる仏教の数ある教えの中から、お念仏の教えを見出され浄土宗を開かれます。この間の法然上人の苦闘のお姿は資料(聴衆に配布)にのせておきましたご法語が端的に物語っております。現代語訳も添えておきましたのでお読みください。

ここにわがごときは、すでに戒定慧の三学のうつわ物にあらず、この三学のほかにわが心に相応する法門ありや。わが身にたえたる修行やあると、よろずの智者にもとめ、もろもろの学者にとぶらいしに、おしうる人もなく、しめすともがらもなし。しかるあいだ、なげきなげき経蔵にいり、 かなしみかなしみしょうぎょうにむかいて、 てずから身ずからひらきて見しに、善導和尚の観経の疏にいわく、 一心に専ら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問わず、 念々に捨てざる者、是を正定の業と名づく、彼の仏の願に順ずるが故にという文を見えてのち、 われらがごとくの無智の身は、ひとえにこの文をあおぎ、もはらこのことわりをたのみて、念々に捨てざるの称名を修して、決定往生の業因にそのうべし。 ただ善導の遺教を信ずるのみにあらず、又あつく弥陀のがんに順ぜり。彼の仏の願に順ずるが故にの文ふかくたましいにそみ、心にとどめたるなり。 (「聖光上人伝説の詞」 浄土宗総合研究所編訳『法然上人のご法語② 法語類編』より)

 法然上人は、しっかりと時代を見つめ、また死ぬほどの思いで〈信機〉と〈信法〉をめぐって遍歴され、格闘されたのです。そして私たちが人間として弱くても、愚かで迷いやすく、煩悩に悩まされても、いかなる立場や生業にあっても、お念仏によって、その身そのままその器のままで救われる、という大乗仏教の究極の道を見出されるのですね。善導大師のご書物をヒントに、浄土への往生を願って心からお念仏をとなえる者は、阿弥陀さまのご本願、お誓いによって必ず救い導いていただける、という浄土のみ教えにたどり着かれたのでございます。

 講師の先生は、とても頑健とはいえないお姿ながら、淡々と、かつ信念に満ちた口調で説いてくださいました。先生の口もとの汗は一段と光っておりました。先生は最後に付け加えておっしゃいました。「どんなに強く見えても、人間はもともと弱いんだよ!」「人間に煩悩はつきものだからね……」
 人生経験の浅い当時の私でも、「あっ、そうか!」と救われる思いが胸中を走りました。

 今日は、私自身のつたない経験も加えてお話をさせていただきました。
 「はじめには我が身のほどを信じ、後には仏の願を信ずるなり」
 私たちの念仏信仰の心のありようを示してくださるありがたいご法語ですね。このご法語をかみしめながら、しめくくりのお十念をご一緒におとなえください。   (同称十念)