◎第2章◎ 宗祖のご法語をいただいて
一、他力往生
如来大慈悲哀愍護念 同称十念
無上甚深微妙法 百千万劫難遭遇
我今見聞得受持 願解如来真実義
つつしみ敬って拝読し奉る。宗祖法然上人のご法語に曰く、
「たとえば、おもき石をふねにのせつれば、しずむ事なく、万里のうみをわたるがごとし。罪業のおもき事は石のごとくなれども、本願のふねにのりぬれば、生死のうみにしずむ事なく、かならず往生する也」と。(十念)
(『平成新版 元祖大師御法語』後篇第二)
セトモノとセトモノとぶつかりっこするとすぐこわれちゃう
どっちかやわらかければだいじょうぶ
やわらかいこころをもちましょう
そういうわたしはいつもセトモノ
これは、相田みつをさんの「セトモノ」という詩です。とてもわかり易い詩ですね。「セトモノとセトモノとぶつかりっこするとすぐこわれちゃう」。陶器ですから、ぶつかり合うと壊れます。当たり前のことです。壊れるということは、大きな音を出しますし、破片を飛び散らせます。「どっちかやわらかければだいじょうぶ」。片一方だけでも、柔らかい何かであれば壊れることはありません。大きな音も出しませんし、破片も散らしません。人と人との関係も同じことです。互いに硬い心で人と接していれば、些細なことで争いとなり、その場を荒らします。「やわらかいこころをもちましょう」。ですから、まず自分から柔らかい心持ちとなって人と接しましょう。気付いた人がそうすれば、いつしか身の回りは平和でおだやかになることでしょう。「そういうわたしはいつもセトモノ」。しかし、なかなか柔らかい心持ちとはなれないのが私たちです。とても素直にいただける素晴らしい詩であると思います。
また、こんな話があります。お釈迦さまの時代に金持ちの女主人がいました。この女主人はとても親切で、しとやかで、控えめで、近所でも評判の女主人でした。ある時、その家のよく働く利口な使用人が、「この主人は根っからのいい人なのか、身の回りの環境がそうさせているのか試してみよう」ということで、次の日わざと寝坊をして、昼頃に女主人のもとへ行きました。すると女主人は「なぜこんなに遅くなったのか」と咎めます。使用人が「少し遅れただけでそんなに怒るものではありません」というと、急に女主人は怒り出したのです。次の日も、使用人は遅れました。すると女主人は怒って棒を手に使用人を打ち据えました。この話が近所に広まり、女主人はこれまでの良い評判を失いました。お釈迦さまはいいます。「だれでもこの女主人と同じである。環境が全て心にかなう時は誰でも良い行いができるものです。大切なのは、環境が心にそぐわない時に、良い行いができるかどうかということなのです」
環境が自分の心にかなう時には「柔らかい心」でも、かなわないときには「セトモノ」になってしまうのが我々ではないでしょうか。あるいは、常に「柔らかい心」でいられる人は、周りの人が柔らかいおかげでそういられるのかもしれません。いつも良くあろうとは思っていても、周りの環境に常に翻弄される愚かな私たちでございます。
お釈迦さまは、人は常に三つの煩悩を持ち、翻弄されていると説きます。
一つは「
「思うこと、ひとつ叶えばまた二つ、三つ四つ五つ六つ(難)かしの世や」
と申します。どこまでも果てしないのがこの「貪」の煩悩です
二つ目は「
「恐るべし、カッといかりの胸の火が、人とわが身を焼き尽くすなり」
まさに、瞬時にすべてを焼き尽くすすさまじさです。思い当たることが多々ありますね。
以前、地元のショッピングセンターで、子ども服売り場の中であおむけになり泣き叫び、暴れている幼い女の子がいました。絵にかいたような駄々のこねようです。お母さんはそばに座って、優しい言葉を掛けたり、なだめたりしますが女の子は一向に聞かず、その場でグルグル回っています。困り果てたお母さんはそばに座って、女の子が落ち着くのを待っています。私は、その様子を目にした後、しばらくしてから別の売り場へ行きました。すると、その売り場に、お母さんに抱っこされ、泣き疲れて眠っているあの女の子を見かけたのです。おそらくほしい洋服か何かがあったのでしょう。買ってもらったかどうかはわかりませんが、女の子は何かが欲しくて欲しくてたまらなかった。そして、買ってくれない母親にその怒りをぶつけたのです。しかしお母さんは子どもの一時の
三つ目が「
以前、お寺で施主家一族が大勢集まった法事がありました。久しぶりに会う親戚、地元から遠くに住む親戚がこの時とばかりに集まったそうです。年齢層も様々です。法要が終わり、座敷での会食を済ませて皆で団(だん)欒(らん)の後、いよいよ解散です。お寺の玄関で皆、別れの挨拶をして次の再会を約束します。すると一人の幼稚園児の男の子が、高齢のおばあさんに向かって大きな声で、「ふとったおばちゃん、バイバイ!」といっておばあさんのお尻を叩いたのです。その子の後ろにいたお母さんが、あわてて子どもを抱えて「申し訳ございません」と謝りました。突然だったので周りも驚きましたが、子どものしたことですからすぐに笑い声へと変わり、和やかな雰囲気となりました。ふくよかでにこにこした親戚のおばあちゃんです。この男の子は、幼稚園で友達と別れる時、きっとお尻を叩いて元気に別れるのでしょう。その親戚のおばあさんとはめったに会わないので名前も覚えていません。親しみを込めて言い放った男の子の言葉が、見た目の特徴「ふとったおばちゃん」だったのです。子どもに悪気はありません。しかし大人から見れば、行いも言動も失礼なことこの上もありません。お母さんはすぐにその場をとりなし、男の子を抱えて、奥の間で何が悪いのかを言って聞かせていました。
この男の子は何が悪いのかが分からなかったのです。大人の道理、常識がわからないからです。しかし、かくいう大人も、お釈迦さまの目からするとわかったようでわかっていない。今現在も仏の道理に暗く正しいことが出来ない「無明」の中に迷う私たちなのです。
「迷いぬる、雲に隠れて見えぬなり、鷲のみ山の有明の月」
「鷲のみ山」はお釈迦さまの住む山「
デパートの女の子も、法事の男の子も子どもであるが故にまだ許されていますが、これが大人であれば由々しきことです。しかし常に周りの環境に翻弄されて、ついセトモノの心となり、知らず知らずのうちに大きな音を出し、周りを汚し、罪を作り続けているのが大人です。反省せねばなりません。このように、行いの全てにおいて、知ってか知らずか罪を作り続けている行い、これを「罪業」といいます。
「そんなに罪があると言われても、そう思いません」という方もいらっしゃるかもしれません。それでは皆さまにお聞きいたします。目をつむってください。これから言うことを指を折って数えていただきます。まずは、これまでの人生で、「人に心から感謝された」ということを数えてください(三十秒、間をあける)。いくつありましたでしょうか。それでは次に、「人に申し訳ないことをしてしまった」ということを数えていただきます(三十秒、間をあける)。いかがでしょうか。
これをいろいろな所で尋ねてみますと、不思議なことに、「人に申し訳ないことをしてしまった」が多い方がほとんどなのです。「人から感謝された」が多い方々も、よく聞いてみると「人に申し訳ないことをしてしまった」という出来事の方が、情景もはっきりと具体的に浮かんできたといいます。このように、思いつくだけでもこれだけの罪があるのです。ましてや法事の男の子のように、知らずと作った罪はどれほどあるのか、ゾッとしますね。
人はいよいよこの命が終わろうとする時、走馬灯のように自分の人生を思い出すといわれます。しかし、その思い出は「良い思い出」ではなく、「悪い思い出」だと聞いたことがあります。それほど私たちは「罪業」を積み重ね、重たい石として抱えているのです。
そのような私たちをこそ、お救いくださるのが阿弥陀仏です。そのお救いを「本願の船」とたとえて、お念仏をお勧めくださったのが冒頭に拝読した法然上人さまのお言葉です。
たとえば、おもき石をふねにのせつれば、しずむ事なく、万里のうみをわたるがごとし。罪業のおもき事は石のごとくなれども、本願のふねにのりぬれば、生死のうみにしずむ事なく、かならず往生する也。
ではなぜ、阿弥陀仏は我々のそれほど重い罪をそのままにお救いくださるのでしょうか。「本願の船」とは何でしょう。
阿弥陀仏は仏となる前、私たちと同じ悩み苦しむ人でした。一国の王さまであったといいます。その国王さまが地位名誉の全てを捨てて仏となり、世の人すべてを苦しみ悩みから救うために、法蔵菩薩と名を変えてご修行くださいました。そして「私が阿弥陀仏という仏となったならば、我が浄土に生まれたいと願って名前を呼ぶ者すべてを救い
これは、結果であり完成されたお救いでありますから疑いの余地はございませんが、考えていただきたいことがあります。それは、私たちと同じ一人の人間であった国王さまが、法蔵菩薩として修行を始めたのは誰のためかということです。それは、自分が仏となって救われるためではありません。世のあらゆる人のため、後の世の全ての人のため、ひいては今の世に生きる人のためです。つまり、ここにいる「私一人のため」そして先に往かれた皆さまの親しい方「あの方一人のため」にもご修行くださったということなのです。
さらに、法蔵菩薩が修行をされた期間は「
しかし、法蔵菩薩一人が仏となられるにはこれほどの時は必要なかったのです。法蔵菩薩は、後の世全ての数えきれない人々、つまり私たち一人一人がすべき修行、それを合わせた以上の修行をしたからこそ、これほどの時間がかかったのです。そしてその修行の大きな功徳を全てお念仏一つに込めてくださったのです。だからこそ阿弥陀仏の名をとなえる「お念仏」をすれば、満足な修行もしていないこの我々が極楽に往き生まれて、仏となることができるのです。大きなものを乗せるには、それ以上の大きな船が必要です。法蔵菩薩は広大無辺の大きな船を造り始め、阿弥陀仏となってその船を完成されました。修行も満足にせず、石のように重い罪業を抱えた私たちをそのまま「本願の船」へと乗せて極楽に迎え摂るためにです。その「本願の船」に乗るチケットが「お念仏」のひと声なのですね。
お檀家に佐藤さん(仮名)という、八十歳も近いおばあさんがいらっしゃいます。還暦も近い息子さんと二人暮らしです。旦那さまは佐藤さんが三十代の頃に先に亡くなられていました。女手一つで五十年も頑張ってこられたのです。しかし、この息子さんはこれまで何度もお酒で失敗し、人に迷惑をかけてきました。お寺に泥酔状態で現れたこともしばしばです。私が月参りでご自宅へ行くと、佐藤さんはいつも「うちの息子は、うちの息子は」とおっしゃいます。そしてある時私にこうおっしゃいました。「実は、最近やっと息子が断酒の会に通い始めてくれたんです。続くといいんですけどね」。そして「実は私もそうだったんです。息子が飲み始めたのは私を見ていたからでしょう。先も短いと思いますが、こんな罪深い私はお父さんのいるお浄土へ行けませんでしょうね」。佐藤さん本人はとうにお酒はやめていました。
しかし、自分に
思えば、先のデパートの女の子も法事の男の子も、傍らには決して見捨てないお母さまがいらっしゃいました。最後には必ず抱きかかえて守ってくださるのです。この息子さんにも佐藤さんという常に気にかけてくれるお母さまがいらっしゃいます。決して見捨てはいたしません。さらに言うならば佐藤さんにも、もちろん私たちにも、阿弥陀仏という「み親さま」がいらっしゃるのです。「できの悪い子ほど愛おしい」と申しますが、良いも悪いも子どもは押し並べて未熟で愚かな存在なのです。「本願の船」をお造りくださったみ心は親心です。この自分を子どもと同じ「罪犯しやすく善成し難き身」とし、「後、罪業犯すまじ」と思わせていただいたならば、あとはただお念仏をおとなえください。そうすれば、み親さまに見守られる安心感と共に、やわらかい心で日常を送り、いつしか必ず本願の大きな船に乗せていただき、阿弥陀仏のお力で極楽浄土へと往生させていただけるのでございます。
(同称十念)