10.〈第四段〉この世の栄華は死後の役には立たない

【原文】

(一)それ、あしたに開くる栄花は夕べの風に散り易く、 夕べに結ぶめいは朝の日に消え易し。
(二)これを知らずして常に栄えんことを思い、これを覚(さと)らずして久しくあらんことを思う。
(三)然る間、無常の風ひとたび吹きて、 の露ながく消えぬれば、これをこう に捨て、これを遠き山に送る。
(四)かばねは遂に苔の下に埋もれ、魂は独り旅の空に迷う。
(五)妻子眷属は家にあれども伴わず、七珍万宝は蔵に満てれども益(えき)もなし。
(六)ただ身に随うものはこうかいの涙なり。

【語句解説】

●有為…直接原因(因)と条件(縁)によって作り出されたもの・現象の意味。この世の存在、すなわち無常な存在を指す。

  第三段で示した私たちの日常は、短期的に見れば大事なことのように思えるかもしれませんが、この世は所詮無常で儚いもの。でも、私たちはなかなかそれに気付くことができず、この世での栄花や長寿など、現世的なことばかりを気にかけてしまいます。そのことを誡めるのが第四段です。
 (一)ではまず、この世の栄華や命というものが、風に吹かれる花びらや朝露の如き儚いものであることを述べます。ところが(二)で説かれるように、私たちはその儚い栄華や命に気をとられ、それに執着してしまっています。
 でも、無常の風が吹いたなら、いとも簡単にこの世の命は消え去ってしまい、死後の旅路に妻子が付き添ってくれるわけではなく、この世で蓄えた財産も何の役にも立たないということになるわけです。それを説くのが(三)(四)(五)にあたります。
 では、何が役に立つのかというならば、まさに生前にこの世で修した修行(もしくは念仏)なのですが、世事にかまけてそれをしてこなかったため、(六)で述べられているように、後悔ばかりが残ります。
 以上がこの一段の趣旨ですが、そのなかで(三)の一文についてはどう解釈すべきか、難しい点があります。一つは「有為」の解釈で、基本的には語句解説に示したような意味であるものの、具体的に何を指すのかが判然としません。おそらく「命」のことを指すのであろうと考えて、現代語訳ではそのように訳してみました。ただ、中村元『仏教語大辞典』によると「有為」そのものに「生命を成立せしめている力、または生命体」という意味もあるようですので、最初からこの意味で理解してもいいようにも思います。
 また、「これを曠野に捨て、これを遠き山に送る」で二度現れる「これ」という代名詞も何を指しているかがわかりづらいです。二回とも「屍」を指しているとも理解されますが、「遠き山に送る」という表現や、(四)の「屍」と「魂」の対句表現との関連からして、二つ目の「これ」は一応、「魂」の意味で取ってみました。
 なお、「曠野」は単に「広い野原」という意味ですが、「曠」には「何もないところ」という意味もあるようですので、「寂しい所」というニュアンスも含まれているかもしれません。