教諭を拝して
法然上人は『選択集』第十六章で、
計 れば、それ速かに生 死 を離れんと欲せば、二種の勝法の中には、且 く聖道門を閣 いて、選んで浄土門に入れ。浄土門に入らんと欲せば、正雑二行の中には、且く諸 の雑行を抛(なげう)って、選んで正行に帰すべし。正行を修せんと欲せば、正助二業の中には、なお助業を傍にし、選んで正定を専 らにすべし。正定の業とは、すなわちこれ仏名を称するなり。名 を称すれば、必ず生ずることを得。仏の本願に依るが故なり(1)
といっている。
これは「略選択」といって、神谷大周勧学は『選択集』を読むとき、この文からはじめられたとしている。苦悩多い迷いの世界を速やかに出離せんとすれば、それには聖道門と浄土門との二種の勝法がある。しかしその聖道門の修行に堪えられぬ者は、
もしそれ造像起塔を以て、本願としたまわば、貧 窮 困 乏 の類は定んで往生の望を絶たん。 然るに富貴の者は少なく、貧賤の者ははなはだ多し。もし智慧高才を以て本願としたまわば、愚鈍下智の者は定んで往生の望を絶たん。 然るに智慧ある者は少なく、愚痴なる者ははなはだ多し。もし多聞多見を以て本願としたまわば、少聞少見の輩は定んで往生の望を絶たん。 然るに多聞の者は少なく、少聞の者ははなはだ多し。もし持戒持律を以て本願としたまわば、破戒無戒の人は定んで往生の望を絶たん。(2)
といって、もし念仏ではなく、造像起塔、智慧高才、多聞多見、持戒持律などが往生行にかなっているならば、貧窮困乏、愚痴、破戒の者たちは往生できなくなる。それ故に法然上人は「造像起塔等の諸行を以て、往生の本願としたまわず、ただ称名念仏の一行を以て、その本願としたまえる」とし、本願である称名念仏を修することのみが凡夫にとっての往生行であるとされた。 そこで「教諭」では建久以降増加してきた神祇信仰について述べており、法然上人の「津戸の三郎へつかわす御返事(九月十八日付)」の文、
この世のいのりに、仏にも神にも申さん事は、そもくるしみ候まじ。後世の往生、念仏のほかにあらず行をするこそ、念仏をさまたぐれば、あしき事にて候え。この世のためにする事は、往生のためにては候わねば、仏神のいのり、さらにくるしかるまじく候也。(3)
すなわち、津戸三郎為守が現世利益のために神仏への祈禱することの是非を尋ねた箇所を挙げている。法然上人は現世において仏神に祈ることは許されるが、後世の往生のために、念仏以外の祈禱等の雑行をすることは念仏の妨げになるからよくない。この世において行うことは、往生のためにするのではないので、仏神への祈りはかまわないとしている。このように法然上人にとっては、後世の往生は本願である念仏以外にはないとしている。ただ現世において祈禱等を行うことは是認しておられる。「教諭」においては「この世のためにすることは、往生のためにではない故に」という前提づきで神祇崇拝を否定されなかったとしている。北条政子への消息では、
この世のいのりに、念仏のほかに、仏にも神にも申し、経をよみかき、仏をつくらんは、専修をさうる行にては候べからず。(4)
といって、現世の祈りに、念仏以外に仏や神にお願いしたり、経典を読み書きし、仏像を造るのは、専修念仏を妨げる行ではないとしている。同じく北条政子への消息に、
唯念仏ばかりこそ、現当の祈りになり候めれ。(5)
といって、ただ念仏だけが現世と来世の祈りの行となるとしている。ただこの世で行うところの仏神への祈りは否定しなかったが、後世のためには、専修念仏こそが絶対の往生行としていることである。以上のように、この世において仏神への祈りを行うことは是認しておられる。当然法然上人は当時において、武士や農民などが神社祭祀などを必要としていたことをよく認識していたからである。 それでは別の角度で仏神祈禱、写経、造堂などの諸行について往生のためには、どのように扱われていたかを考えてみたい。『選択集』に、
次に異類の助 成 とは、まず上輩に就いて正助を論ぜば、一向専念無量寿仏とはこれ正行なり。またこれ所助なり。捨家棄欲、而作沙門、発菩提心等とは、これ助行なり。 また能助なり。謂く往生の業には、念仏を本とす。故に一向に念仏を修せんが為に、家を捨て欲を棄て沙門と作(な)り、また菩提心を発す等なり。 中に就いて出家発心等とは、且く初出および初発を指す。念仏はこれ長時不退の行なり。 むしろ念仏を妨 礙 すべけんや。 中輩の中に、また起立塔像、懸 繪 、燃 燈 、散華、焼香等の諸行有り。 これすなわち念仏の助成なりその旨『往生要集』に見えたり。謂く助念方法の中の、方処供具等これなり。下輩の中に、また発心あり、また念仏有り。 助正の義、前に准じて知るべし。(6)
といって、まず三輩の上輩についてその関係をいうならば、「一向専念無量寿仏」というのは正行であって、これは助成されるものである。これに対して「捨家棄欲、而作沙門、発菩提心等」という諸行は能助であって、これはよく念仏を助ける役目をなすものである。ここではひたすら念仏されるように出家し菩提心をおこすこととしている。念仏をよりはげむためには出家を便とし、菩提心をおこすことが助縁となる場合である。 次に中輩の人びとにも「起立塔像、懸繪、燃燈、散華、焼香」などの諸行が挙げられている。これもまた念仏を助成するものである。また下輩の人びとについても、菩提心を発すことによって念仏を助成するものとしている。ここでは念仏を助成する異類の善根を異類助業といって、助業をはなはだ広義に説かれている。「禅勝房に示されける御詞」に、
我が身、仏の本願に乗じて後、決定往生の信起こらん上は、他善に結縁せん事、全く雑行とは為るべからず、往生の助業とは成るべきなり。善導の釈中、已に他の善根を随喜し、自他の善根をもって浄土に回向す。云々 此の釈をもって知るべきなり。(7)
といって、ここでは決定往生の信を得た上には他の善根に結縁助成することも、まったく雑行ではなく往生の助行であるとせられ、また衣食住の三も念仏の助業、自身安穏にして念仏往生をとげんがためには、何事もみな念仏の助業とされているのである。 以上をまとめると、(一)に「速やかに生死を離れんと欲せば」といっているように、往生浄土のためには本願である称名念仏を行うことが絶対条件である。(二)に神祇信仰である諸行等については、往生のためでないならば、この世で行っても差し支えないとしてるいる。(三)に諸行についても決定往生の信を得たならば、それは諸行ではなく往生するための助業となるのであって、これを異類の助業としている。
[註]