二、安心
如来大慈悲哀愍護念 同称十念
無上甚深微妙法 百千万劫難遭遇
我今見聞得受持 願解如来真実義
つつしみ敬って拝読し奉る。宗祖法然上人のご法語に曰 く
「三心と申し候うも、かさねて申す時は、ただ一つの願心にて候うなり。そのねがう心のいつわらず、かざらぬ方をば、至誠心と申し候う。此の心の実 にて、念仏すれば臨終に来迎すという事を、一念もうたがわぬ方を、深心とは申し候う。このうえわが身もかの土へうまれんとおもい、行業をも往生のためとむくるを、廻向心とは申し候うなり。此の故に、ねがう心いつわらずして、げに往生せんと思い候えば、おのずから三心は具足する事にて候うなり」と。(十念)
(『元祖大師御法語』前篇第九章)
「心ここにあらざれば、見れども見えず聞けども聞こえず」と申します。心配ごとのあるときに、おいしいものをいただいても味がわかりませんね。「心ここにあらざれば食べても味はしらず」でございます。今日は、お念仏を申すときの心の据えどころについてお話しいたします。
私たちは普段、心が安らかで心配のないことを、安心(アンシン)といってよく使いますね。「入院していたばあちゃんが退院してきてひと安心」とか、「子どもが卒業して安心しました」などと使います。でも世間の安心には心配がついて回ります。「高齢だから、いつまたばあちゃんが転ぶかも知れない」「子どもは卒業したけれど就職が決まらない」などと安心の後ろに心配が控えています。
どなたかがおっしゃっていました。
子育てには手間ひまがかかる
手間ひまがかからなくなると金がかかる
金がかからなくなると気にかかる
気にかからなくなると死にかかる
これが人の一生だそうです。なかなか安心できません。何が起こるかわからぬ世の中です。
平成二十三年三月十一日、東日本大震災が起きました。当時、作家の曾野綾子さんがこんな随筆を書いておられます。読んでみますね。
つい先日まで何と多くの政治家たちが、選挙の度に、私たちに「安心して暮らせる生活」を約束すると平気で言ったことか。そして何と多くの強欲な有権者の老人たちまでが、「安心して暮らせる生活」が現世にあると勘違いして、それを政治家たちに要求して来たことか。「安心して暮らせる」などという状態はこの世にあり得ないことを、何十年も生きてきた老人たちこそ、はっきりと自覚しているべきであったろうに。
いかがでしょう。「安心して暮らせる生活などあり得ない」という曾野綾子さん。厳しい表現にも感じられますが、現代の、恵まれた日本人の精神の甘さを指摘してくださっているのです。
今後は少し禁欲的になることが必要だろう。そして決して「安心して暮らせる生活」などという詐欺話に引っかからず、「お取り寄せ」グルメに熱中するような生活からも遠ざかることだ。云々
とも書いていました。考えさせられます。
さて、安心(アンシン)を「アンジン」と濁って読みますと、仏教語で「信仰によって、心が不動の境地に達すること」となります。私たち浄土の教えでは、阿弥陀仏を信じて疑わないことをアンジンと申します。アンシンかアンジンか、澄むと濁るで大違いです。
世の中は澄むと濁るで大違い刷毛 に毛があり禿 に毛が無し
世の中は澄むと濁るで大違い たんすは動かず ダンスは動く
うまいこと言いますねぇ。テンテンが付くとコロッと変わります。「ためになる人、ダメになる人」皆さんはどちらでしょうか。
世の中は澄むと濁るの違いにて 橋はかけるもの 恥はかくもの
「キスは
阿弥陀さまの大きなお慈悲の中に、私たちのウロウロする心をしっかり安置することを安心(アンジン)と申します。一切の衆生を救おうという仏さまの大きなの願いの中に凡夫の心を安置しますと、乱れた心が安定し、安楽の境地を得られるのです。心配がついて回る「アンシン」ではなく、阿弥陀さまといつも一緒の「アンジン」が信仰の世界なのです
「ただ一向に念仏すべし」と教えられている私たちですが、そのときの心もちはどうあるべきか。念仏者の心がまえを安心(アンジン)と申しまして、これに三つございます。浄土宗の拠り所とするお経「浄土三部経」の一つ、『仏説観無量寿経』の中に、
阿弥陀仏の国に往生したいと願う衆生は、三種の心をおこすと、必ず往生する。何が三種の心かといえば、第一に至誠心、第二に深心、第三に廻向発願心である。この三心を具えた者は必ずかの阿弥陀仏の国に往生するのである。
と説かれております。ここで三心の一つ一つについて、法然上人のご法語を通してお話ししましょう。
まず至誠心。至誠心とは「至というは真なり、誠というは実なり」と善導大師が解釈なさっておられるように、真実心のことです。真実というのは、嘘偽りの心がないこと。嘘偽りというのは、煩悩を起こして正しい思いを失うことです。貪りや怒りの煩悩から離れることの出来ない私たちですが、俗世間を重視せず、浄土を願って、往生こそが大事だと思いながら念仏に励むのを真実心というのです。世間でも、まことの心が天に通じる、といいます。真実心の反対が虚仮心で、人目を飾り外目と中味が異なる心です。飾らない素直な心で、善人は善人ながら、悪人は悪人ながら、生まれつきのままに、人の目を気にするのではない、仏さまを相手にしていくまこと心、真実心が至誠心です。法然上人はこの至誠心のこころを、
往生は 世にやすけれど みな人の まことの心 なくてこそせね
と詠まれています。往生することは世にもたやすいことですが、どんな人でも真実まこと心がなくては、仏さまの願力にかなわず、往生を不可能にしてしまいますよ、心も振る舞いも共にまこと心で念仏を続けてください、というのです。
三心の二番目は深心です。深く信じる心です。自分が悪業や煩悩から離れきらない凡夫であると、わが身のほどを信じ、その自分でも、本願の念仏により救われると深く信じることです。深く信じるという中に二つの面があります。
善導大師の書かれた書物には、第一に「自分は罪悪生死の凡夫で常に迷いの境涯をさまよい、出離の縁がない」と深く信じ、第二に「阿弥陀仏は四十八願の力で衆生を往生させてくださる」と深く信じることが説かれています。法然上人のご法語には、
深く信じる心というのは、「南無阿弥陀仏とおとなえすれば、その阿弥陀仏の誓いによって、どのような身でも分け隔てなく、確実にお迎えくださるのだ」と、深く頼みとして、どのようなわが身の罪も顧みず、疑う心が少しもないことを言うのです。
と、仰せです。
次、三心の最後は廻向発願心。廻向発願心とは、自分や他人の一切の善根を往生のために振り向けて往生を願う心のことです。廻向とは、向きを回すこと。お浄土へと私の向きを回します。発願心というのは、お浄土を慕い願う心を発すこと、往生を願う心(願往生心)を発すのです。法然上人は、
廻向発願心というのは、過去世およびこの生涯において、身と口と心の行為を通して積んだすべての善根を、真実の心をもって、極楽往生のために振り向け、往生を願い求めることです。
とおっしゃっています。
『仏説観無量寿経』に説かれる三心、すなわち至誠心、深心、廻向発願心のそれぞれについてお話ししましたが、この三つをまとめて昔の方が、
いつわらず、又うたがわず 彼の国を願うは三つの心なりけり
と詠んでおられます。この三心がととのったところの念仏を、三心具足の念仏と申します。しかしお念仏を申すときに、今の私は、三心の中の至誠心だ、深心だ、廻向発願心だ、と、別々の心でしょうか。阿弥陀さまに帰依しますという一つの心ですね。『仏説阿弥陀経』には「一心」と書かれています。
極楽に 生まれんと思う心にて 南無阿弥陀仏というぞ三心
の歌のごとく心得るのです。
法然上人は、先に拝読したご法語にありますように、「三心と申し候うも、かさねて申す時は、ただ一つの願心にて候うなり」、と、念仏者に必要な三心というのも、まとめて申すときは、ただ一つの、往生を願う心以外にありません、と教えてくださいます。三心といっても、三つのバラバラの心ではなく、まとめると、往生を願う一つの心なのです。その願う心に嘘偽りがなく、飾らないことを至誠心と申します。この心が真実であって、「念仏すれば、阿弥陀さまが臨終のときにお迎えくださる」ということを深く信じて疑わない点を深心といい、その上に「自分も浄土に生まれよう」と願って、善き行いの功徳は往生のためにと振り向けるのを廻向発願心というのです。
至誠心、深心、廻向発願心の三心を、願心の一つでお受け取りするのが浄土宗の安心、念仏者の心の据え所です。法然上人は「此の故に、ねがう心いつわらずして、げに往生せんと思い候えば、おのずから三心は具足する事にて候うなり」とおっしゃいます。願う心に嘘偽りがなく、本当に往生したいと思えば、自然に三心は具わるのです。願う心がなければ、三心を知ったからといっても具わりません。三心を知らないから、ないのではなく、往生を願い求める心があれば、学ばなくても三心は自然に具わるのです。願う心があるかないかが大切なのです。
一般に仏教では、発心修行といって、願いを発してそれを実行する、という心と行を具えるべきだといわれています。極楽往生のためにも心と行が一致していなければなりません。浄土宗では「安心と起行」といいます。私たちは歩くときに目で方向を見て足を進めますよね。安心は目、起行は足に喩えられるでしょう。江戸時代の忍徴上人というお方が「安心起行の法門は、往生極楽の目足なり」と述べております。安心とはお伝えしてきた三心のこと、起行は念仏をとなえることです。安心の目で方向を定めて、一歩一歩起行の足を運んでいきます。このとき安心が定まっていなかったら目的地に着けません。善導大師は、
ただその行だけがあるというのも、行が孤立して、行き着く先がない。ただその願いだけがあるというのも、願いが虚しいものとなって、やはり行き着く先がない。必ず願と行とが互いに助け合うときに、目的はみなたち成される。
とおっしゃられています。安心と起行のバランスが大切です。心行具足の念仏、願行具足の念仏が大切です。
「浄土宗の安心起行、この一紙に至極せり」とある法然上人ご遺訓の『一枚起請文』に、
ただし三心・四修と申すことの候うは、皆決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ううちにこもり候うなり。
とございますよ。「名号をとなうれば、三心、自ずから具足するなり」です。
心行具足のお念仏が大切です。法然上人の『常に仰せられける御詞』の中に、
南無阿弥陀仏というは、別したる事には思 べからず。阿弥陀ほとけ我をたすけ給えということばと心えて、心にはあみだほとけ助け給えとおもいて、口には南無阿弥陀仏と唱うるを、三心具足の名号と申 也。
(昭法全四九二頁)
とありますのも、安心の目と起行の足が揃うことをお示しくださっておられるのです。
私たち念仏者の心構えは、往生を願い、念仏すれば阿弥陀仏がお迎えくださると信じる以外にありません。それが自然に三心となるのです。阿弥陀さまの大きなお慈悲の中に、私ども凡夫のウロウロと乱れる心を安置する生活、すなわち心行具足の念仏生活を深めてまいりましょう。
後の世も この世もともに 南無阿弥陀仏 仏まかせの 身こそやすけれ
南無阿弥陀 ほとけまかせの 心には 思いわずらう 事の端もなし
これらは江戸中期の高僧、無能上人のお歌です。仏さまにまかせきってお念仏申す身になってこそ、本当の安らぎがいただけます。世の中は澄むと濁るで大違い、「アンシン」と「アンジン」。安心(アンジン)のお伝えでございました。 (同称十念)