◎第2章◎ 宗祖のご法語をいただいて

 
 

一、よろこびの中の悦なり

浄土宗布教会東海地区支部 小栗 信康
如来大慈悲哀愍護念  同称十念

無上甚深微妙法 百千万劫難遭遇
我今見聞得受持 願解如来真実義
つつしみ敬って拝読し奉る。宗祖法然上人のご法語にのたまわ
「うけがたき人身をうけて、あいがたき本願にあいて、おこしがたき道心を発して、
はなれがたき輪廻の里をはなれて、生れがたき浄土に往生せん事、よろこびの中の悦なり」と。(十念)
    (『元祖大師御法語』前篇第十章)

皆さま、こんにちは。今日は御忌法要によくお参りくださいました。毎年勤まることとて皆さますでによくご存じのように、今日の法要は私たち浄土宗の宗祖法然さまのお命日の法要でございます。この法要をお勤めしますことの大切な意義は、宗祖さまを偲んでご供養すると共に、私たちがそのみ教えであるお念仏をとなえるようになることです。それが宗祖さまへの何よりの報恩であるとともに、私たち自身が幸せになる道なのでございます。
 さて、私もいろいろな人生体験を重ねる中で、お経に書かれてあることが少しずつではありますがなるほどと合点がいくようになり、お陰さまでその滋味の一端が味わえるようになってきました。それでお経を読むことが若い頃よりも尊く、有り難くなってきています。
 お経とは、お釈さまの説かれた教えが書かれたものです。俗に八万四千の法門と言われ、膨大な数のお経がありますが、浄土宗ではいわゆる「浄土三部経」といわれる三つのお経を尊重しています。すなわち『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』の三経です。これらのお経には阿弥陀さまのご本願やお念仏が大切なこと、また凡夫がお念仏によって往生するのは間違いないことを六方の諸仏さま方が証明してくださっていることなどが書かれています。
 そして素晴らしいのは、これら三つのお経の最後には全て[歓喜]という言葉が書かれているんですよ! 『無量寿経』の最後には、「お釈さまがお経を説き終わると、弥勒菩以下聞いた方たちは皆歓喜した」、『観無量寿経』の最後には「お釈さまの教えを聞いた方たちは皆歓喜した」、そして『阿弥陀経』の最後には「お釈さまの教えを聞いた方たちは皆歓喜信受した」とあるんです。
 人生は自分の思い通りであってほしいものです。しかし、この世はそうではないことは誰もが熟知しています。さらにそこに自分の都合中心で生きる私たちが住んでいるのですから、これはもうにっちもさっちもいかなくなるのは当然のことです。そんな苦しみにあえぐ私たちが救われる道をお釈さまがお示しくださったので、聞いた方たちは皆[歓喜]したのです。
 その救われる道を宗祖さまが、皆さまよくご存じの『一紙小消息』の中で、[所求][所帰][去行]としてわかりやすく説き明かしてくださいました。すなわち私たちが求める世界(所求)は極楽、私たちが帰依する仏さま(所帰)は阿弥陀さま、さらにその極楽に往生する行(去行)はお念仏として、お念仏をとなえていくことこそが私たちの救われる道であるとお示しくだされたのです。
 しかし、この道を信じるには色々な因縁が整わなければならず、それはとても困難なことなのですが、今ここにその因縁が全て整ったので、宗祖さまは[悦の中の悦なり]と感激の声をあげられたのです。そしてその感激を宗祖さまは次のように表されました。

うけがたき人身をうけて、あいがたき本願にあいて、おこしがたき道心を発して、はなれがたき輪廻の里をはなれて、生まれがたき浄土に往生せん事、悦の中の悦なり。

 この『一紙小消息』は宗祖さまが黒田の聖人という方に宛てたご法語なのです。そこでは凡夫が救われる道は往生極楽の道であるのに、凡夫は疑いの心が大きいということで、まず疑いの心を捨てさせることから説き起こし、続いて先ほど申し上げました[所求][所帰][去行]の三つを信ずれば、阿弥陀さまのご本願によって間違いなく極楽往生出来るから、深く信じなさいとお示しくだされました。
 そしてその次にお説きくださいましたのが、ただ今読み上げましたご法語なのです。まず第一に、輪廻する私たちが人間として生まれてくることはなかなか難しいことであり、第二に、人間として生まれてきても阿弥陀さまのご本願と出会うことは難しいことであり、第三に、ご本願と出会う縁に恵まれたとしても極楽に往生しようという心を起こすことはまれであり、第四に、輪廻する世界から離れることは難しく、第五に、凡夫の力では極楽に往生することはとても出来ない、というように、極楽に往生するためには越えなければならない五つの難処があります。これらの難処を乗り越えるための一つの縁を結ぶだけでも難しいのに、それらの縁が今ここに全て結ばれたのです。すなわち私たちは今人間として生を受け、こうして阿弥陀さまのご本願と出会い、極楽に往生しようという心になり、ご本願によって輪廻の世界から離れ、極楽に往生できるというのですから、宗祖さまは[悦の中の悦なり]と喜悦されたのです。
 では思い通りにならない世界の中で、私たちはどうやって生きたらいいのでしょうか。
 私の寺のある場所は、たくさんのお寺が集まっている寺町の一角です。私の寺の前にあるお寺は幼稚園を経営されています。そこでは毎朝、園児たちが登園するとまず本堂の前に行き、手を合わせて「明るく、正しく、仲良く、良い子になりますように」と言っています。ある朝、朝礼での先生のお話がスピーカーから聞こえてきました。「この頃、皆さんの言うことを聞いていると、『明るく、楽しく、仲良く、良い子になりますように』と言っている子が大勢います。でも本当はね、[楽しく]じゃなくて、[正しく]ですよ。わかりましたか?」「はーい」という元気な声が一斉に起こりました。聞くともなく聞こえてきた声に一瞬とまどった後、「そうか、なるほど」と妙に感心し、笑ってしまいました。[正しく]と[楽しく]は言葉にすると全く違うのですが、発音すると、[ただしく]と[たのしく]は一字違うだけで、よく似ています。だから園児たちが間違えていたのですね。
  この[明るく][正しく][仲良く]という教えは、仏教で大切な三宝の教えからきています。三宝とは仏さま(仏)とその教え(法)とそれを実践する人(僧)のことで、それをわかりやすく、しかもそれぞれの特徴を生かして、[仏]を[明るく]、[法]を[正しく]、[僧]を[仲良く]と表したのです。ですから、教えは[正しく]であって、決して[楽しく]という意味にはならないのです。それなのに[正しく]という言葉が、[楽しく]に変わっていたのです。たった一字の違いではありますが、それはとても大きな違いなのです。[楽しく]ても[正しく]ないことはしてはいけないし、[楽しく]なくても[正しい]ことはしなければいけません。だからこそ先生は、そこを間違わないようにと園児たちに注意されたのでしょう。ここを間違うと大変なことになってしまいます。
 私は篤志面接員という立場で、毎月一回豊橋刑務所を訪れ、仮釈放直前の受刑者の人たちにお話をすることになっています。しかし、私の話をただ黙ってじっと聞いているよりも、入所中に色々考えたであろう自らの犯罪の懺悔・入所中の学び・出所後の生き方など入所生活の全てを仮釈放直前に一度総括して他人に話し、聞いてもらってアドバイスを受けることのほうが、その総括をより有効にするだろうと思い、本来は聞く側の彼らに話をしてもらい、それをずうっと聞いてきました。皆さん本当に真剣に、真面目に話してくださいます。そうやって十年以上も聞いてきた彼らの話の中から、刑務所に入る人たちに共通点を感じました。それは、何をやっても[自分だけは大丈夫]、そして[これくらいは大丈夫]という二つの点です。つまり自分が、[楽しい]ためには、[正しくない]ことをしても大丈夫だという自分中心の考えをしているということです。
 でもそれは彼らだけのことでしょうか。私たちも多かれ少なかれ、[正しい]ことより、[楽しい]ことを選んではいないでしょうか。わがままな生き方をしてはいないでしょうか。彼らの話を聞くたびに自分の胸がうずきます。そんな彼らが話の最後に一様にいうことは、「楽しくなくても正しいことは行い、楽しくても正しくないことはしてはいけないことと、刑務所という集団生活(すなわち社会)の中でわがままは出来ないから我慢することを学んだ」ということです。明るい顔つきと生き生きした眼で「今度は大丈夫です」と力強い口調でいうのを聞くと、「頑張って幸せになってください」と心から祈らずにはおられません。
  私たちは、頭の中では[正しい]ことをしようと思っていても、[楽しい]ことをつい優先してしまいがちです。わかっていてもついしてしまうのですね。昔、植木等さんが「わかっちゃいるけどやめられない」と歌ったように、誰もが決して知らないのではなく、十分知っているのです。それなのに思う通りには[正しい]ことが出来ないから苦しむのです。
 しかし、「それが凡夫というものなのだ。だから私はそんな凡夫を救おうとしたのだよ。そのために極楽をこしらえ、そこへ往生させるために誰でも出来る行として念仏を選び、念仏をとなえる者は誰でも救おうという本願を立てたのだ」とおっしゃってくださったのが阿弥陀さまであり、それをふまえて「今のあなたのありのままでいいから、お念仏をとなえなさい。そうすれば阿弥陀さまのご本願で救われるのだよ」と、私たちが救われる道を明らかに示してくだされたのがお釈さまであり、そうしたことが書かれてあるのが「浄土三部経」なのです。
 私たちは[正しい]生き方が思い通りに出来ない凡夫だからこそ、阿弥陀さまにすがるしか救われる道はないのです。そして阿弥陀さまを信じてお念仏をとなえていけば極楽に救われるのだと生き方がわかったので、皆[歓喜]し、宗祖さまは「悦の中の悦なり」と感極まれたのです。
 また私たちは必ず死ななければなりません。それをどう捉えたらいいのでしょうか。
 私が豊橋市でさせていただいている仏教講座で「浄土三部経」を講義していた時のことです。『無量寿経』・『観無量寿経』・『阿弥陀経』と講義が進むうちに、受講生の方々が異口同音に「死ぬのが怖くなくなってきた」といわれるようになってきました。そして受講生中の最年長で九十二歳の岡村みささんは、最後に行く場所が極楽だと心に落ち着かれ、また極楽が西にあるという話をふまえ、「私は夕陽が沈むように静かに臨終を迎え、お浄土に往きたい」と、おっしゃられるようになりました。これも[所求][所帰][去行]の教えを納得し、[歓喜]した証左でしょう。
 また私の寺のお檀家の鈴木ひさをさんは、そのご主人が亡くなられてお葬式を出された時、私に話しかけられました。「おっさん、私が死ぬ時は千両役者で行くでのん」と。びっくりしました。もうお念仏の信心がどっかと腹に座っていらっしゃるのでしょう。堂々とした死にっぷりを「千両役者でいく」と言い表されたのです。こんなことが言えるだけで、もうすでに立派な千両役者です。そこには生に対する執着も、死に対する怖れもみじんもなく、信心をいただいた者が、生きることも死ぬことも阿弥陀さまに任せきった安らぎとすごみがありました。そして九十四歳の秋、見事千両役者で往生の素懐を遂げられたのです。
 さらに極楽をこの世ではお寺に見立て、またお寺を通して極楽に心を馳せ、安らぎを覚える方々もいらっしゃいます。やはり私の寺のお檀家の鈴木直平さんは、物静かでとつとつとして話され、いつも笑顔を絶やさない明るい方でした。よくお寺にお参りにみえるので、私が「直平さん、よくお参りなさるねえ」と声をかけると、いつも決まって「ここが私の最後の家だから」という答えが笑顔とともに返ってきました。最後に行く場所が決まっているから安心して生きておられたのです。
 一方、ガンの宣告等で死が現実に目の前に突然ヌゥッと現れた方は、相当な心理的ショックや恐怖心などが起こることでしょう。やはり私の寺のお檀家の藤城佳子さんは五十四歳で乳ガンを患われ、発見された時はすでに末期でした。そんなある時、お寺にお参りにみえて本堂に入られると、本尊さまの前に座られました。そして本尊さまに手を合わせた後、じぃっとあたりを見回して「私も、もう少ししたらここに来るのねぇ」と静かに呟かれました。それはこの世と別れなければならない悲嘆の呟きである一方、自分が亡くなっても先立った亡父のいるお浄土に救い取られるのだという安心のそれでもあったのでしょう。そうやって佳子さんも寺を極楽に見立てるとともに、お寺を通して極楽に心を馳せ、心理的ショックや恐怖心を克服されたのではないでしょうか。死んでも行く場所がある。それはどんなに心強いものでしょうか。どんなに心安らぐことでしょうか。この時、阿弥陀さまの「我が名をとなえよ、さらば救わん」のお言葉が力強く、優しく、有り難く心に沁みこんできて、ただ合掌し頭が下がるばかりの姿になるのです。
 今から十二年前の平成十五年三月末、愛知県豊橋市野田町にある法香院元住職鈴木大雲尼が九十七歳の生涯を閉じ、往生浄土の本懐を遂げられました。一般に僧が亡くなりますと、山門の前に[山門不幸]と書かれた駒札を立てますが、大雲尼は九十歳頃から寺族に「こんなに長生きさせていただけるとは思いもしなかった。私は阿弥陀さまのお迎えがあればいつでも悦んで極楽に往かせていただく。死ぬことは決して不幸なんかじゃない。だから私が死んでも[山門不幸]なんて書いてくれるな。[往詣楽邦]と書いてほしい」とおっしゃっておられたそうです。[往詣楽邦]とは、「極楽に往生する」という意味ですから、その駒札が法香院に立ったということは、法香院で亡くなられた僧がいることを世間に公示している訳です。一般には死ぬことを不幸と捉えるわけですから、[山門不幸]とあるのも故なきにしもあらずですが、大雲尼はそうした伝統にとらわれずにご自身の思う通りに行動せられ、しかもそれが僧侶として理に叶った行動でありますから、この話をお聞きした時、思わず合掌し、頭が下がりました。
 それから八年たった平成二十三年、今度はその弟子で法香院前住職鈴木大善尼がご往生なされました。この時もやはり[山門不幸]と書かれずに[往詣楽邦]と書かれました。師の遺訓を体得された素晴らしいことでした。
 このように、お念仏をとなえている方は、いつか死ぬ時がきても極楽に往生することがわかっているのですから、安らかな心で死を迎えることが出来るのです。
 凡夫の生き方しか出来ない私たちが救われるには色々な因縁が整わなければならず、一つの縁を結ぶだけでも難しいのに、今まさに、その因縁が全て整ったのです。これからは生きていく方向は極楽、頼むお方は阿弥陀さま、生き方はお念仏をとなえる生活が自分の救われる道だと信じていきましょう。それが出来た時、救われる[歓喜]や[悦び]が心に自ずと涌いてきて、それが生きる大きな力となるのです。このように、生きる時も[歓喜]と「悦び」にあふれ、死ぬ時も安らかな心で往生出来る訳ですから、お念仏をとなえる生き方こそが本当の幸せな生き方なのです。
 今日の御忌のお参りを通じて宗祖さまをご供養致しますとともに、私たちもお念仏をとなえる日暮らしを始めていきましょう。

うけがたき人身をうけて、あいがたき本願にあいて、おこしがたき道心を発して、はなれがたき輪廻の里をはなれて、生れがたき浄土に往生せん事、悦の中の悦なり
     (同称十念)