12.〈第五段〉 善人悪人と一念多念

 では、その「悦の中の悦」である「往生」を目指す際、たとえ「一念十念」であっても、また「罪人」「煩悩具足の凡夫」であっても往生できることは第一段で述べられていたのですが、それでは一回だけ念仏をとなえたら、あとは何もしなくてよいのか、また念仏さえとなえたらあとはどのような悪いことをしてもよいかというと、決してそうではないということが次に説かれます。それが第五段です。

【原文】

 (一)罪は十悪五逆の者も生まると信じて、少罪をも犯さじと思うべし。罪人なお生まる、いわんや善人をや。
 (二)行は一念十念なおむなしからずと信じて、無間むけんに修すべし。一念なお生まる、況や多念をや。

 (一)の十悪・五逆といった罪深き者でも往生できるということは、文言の異なりはあるものの、ほぼ第一段の(二)(四)と同じ内容です。ところが、ここではそうであると信じつつも、「少罪をも犯さじと思うべし」というように、少しの罪業も犯さないようにと述べられます。一見、矛盾のように思えますが、これこそ法然上人の基本的な立場ということができます。というのも、法然上人のご法語の全体を見てみると、重罪の者でも往生できるということを繰り返し説かれる一方で、できる限り悪業を避けつつ念仏すべきと説くご法語も複数存在するからです。(20)
 また、(二)の念仏の数についても同様です。「一念十念なおむなしからず」というのは第一段の(一)と同趣旨ですが、やはりここではそう信じつつも、「無間に修すべし」、つまり間を置かず念仏を修し続けよと仰います。法然上人のご法語の中にはやはり、一念十念での往生を強調するお詞と、多念すべきとするお詞との、いずれもが頻出し、明らかにその両者を並行して勧めておられたことがわかります。
 このように、罪人や一念十念の者でも往生できるのは確かで間違いないのだけれども、そう信じつつも、実際には善人にして多念しなさいと仰るわけです。これは矛盾といえば矛盾ですが、そこには法然浄土教の根幹が示されていると考えられます。
 そもそも法然上人は比叡山において、最初は戒律を守り難行を積んで悟りを目指そうとされました。しかしながら、それを目指して頑張れば頑張るほど、それを達成できない自分に気付いてゆかれたわけです。すなわち『諸人伝説のことば』に「戒定慧の三学のうつわものにあらず」(聖典四・四八四頁)と説かれるとおりです。そこで法然上人は「三学の外に我が心に相応する法門ありや、我が身に堪えたる修行やある」(同上)と探し求め、ついに到達されたのが、「専修念仏」の教えでした。ですから、「専修念仏」の教えは基本的に私たち凡夫でも悟りに至ることのできる教えといえるのですが、だからといって法然上人は、無批判に易行のみを追い求められたわけではありません。あくまで仏教の教えを逸脱しないということを大前提として説かれた教えといえます。では、仏教を逸脱しない範囲は何かといえば、それは「行」の重視でしょう。
 そもそも、仏教は観念論ではなく実践(経験・体験)を重んじる教えです。悟りに至るためにいくら頭の中で煩悩を滅しようと思っても滅することはできません。「修行」という実践を通してはじめて煩悩を滅することができるわけです。ただ、その修行は非常に困難なもの。凡夫には不可能です。そこで法然上人は、阿弥陀仏の本願力をいただくことによって、悟りへの道を切り開こうとされたわけですが、そうすると今度は、阿弥陀仏(の本願)を信じるということが断然、大切となってきます。それがないと、他力(=本願力)をいただくことが不可能となるからです。それゆえ法然上人の教えは、それまでの仏教、さらには平安浄土教と比べても、信心重視となっているといえます。
 しかしながら、あまりに信心を重視すると、それは観念論となりかねません。おそらく法然上人は、これ以上信心を重視すると、仏教の教えから逸脱してしまうと感じられたのではないでしょうか。事実、当時盛んであった本覚思想は「一念信」を重視して「行」を軽視する傾向にありましたが、同じ易行的傾向を持つにもかかわらず、法然上人は本覚思想に対しては批判的であったようです。(21)
 ただし、だからといって逆に行を重視して、難行になってしまうと、今度は凡夫には実践不可能となってしまいます。まさに仏教の教えを逸脱しないという点と、凡夫でも悟りに到れるという点の両方をギリギリのところで実現した教え、それが「専修念仏」であったと考えられます。だからこそ法然上人は、「信」と「行」との同等重視に非常に腐心されたのでしょう。
 まさに『一紙小消息』のこのお詞も、それを端的に示していると考えられます。すなわち、「罪人・一念十念」でも往生できるというのは、普通は信じられないかもしれないが、それは真実であり、よってそれを「信」じつつも、でも実際には可能な限り「善人・多念」であるよう「行」じてゆくべしと仰っておられるわけですから。ここには明白に「信」と「行」の同等重視が見られます。
 これと同様のお詞は、『一紙小消息』以外にもいくつか指摘できますが、典型的なのは次の二つでしょう。まず一つは『往生大要抄』の「強く信ずる方を勧むれば邪見を起し、邪見を起させじとこしらうれば信心強からずなるがすべなき事にてはんべるなり」(聖典四・六二頁)というお詞です。信心を強調すれば、「邪見」を起こしてしまうというわけです。おそらくここでの邪見は、「一念十念で十分であって多念の必要はない」とか「念仏さえとなえれば、悪事を働いても構わない」といった見解を指すものと思われます。逆にそのような邪見を起こさないようにと誡めたら、今度は「一念十念では往生できない」とか「悪業を犯したなら往生不可」と考えて、「一念十念・罪人でも往生できる」という阿弥陀仏の本願を疑うことになり、信心から遠ざかってしまうというわけです。
 もう一つのお詞は念仏行に限ってのお詞ではあるものの、やはり同趣旨といえます。それは『禅勝房にしめす御詞』の「一念十念にて往生すといえばとて念仏を疎相に申せば信力が行を妨ぐるなり。念々不捨といえばとて一念十念を不定ふじょうに思えば行が信を妨ぐるなり。かるが故に信をば一念に生まると取り行をば一形いちぎょう励むべし」(聖典四・四三三頁)です。「一念十念で往生できるからといって、念仏を適当に申すならば、信が念仏行を妨げることになる。逆に善導大師が〝念々不捨(=一瞬一瞬たりとも念仏行を捨てない)と仰っているからといって、一念十念では往生できないと思うならば、今度は念仏行が信心を妨げることになる」というわけです。
 このように、法然上人は「信」と「行」とのいずれかに偏ってしまうことを強く誡めておられます。ですから、私たちも日々の信仰生活において、信心はあるが念仏はあまり申さないとか、逆に念仏は申すが往生を願う信心は薄いなどといったことのないよう、常に気をつけるべきといえましょう。
  なお、この一段には「罪人なお生まる、況や善人をや」という、親鸞聖人の『歎異抄』第三章に現れる悪人正機(「善人なをもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」)とは逆の文言が見られます(22)。悪人の方を往生しやすいと見る『歎異抄』の悪人正機説は、その逆説的な表現ゆえに注目されますが、本来、仏教は「廃悪修善」を旨とする教えです。そのような観点からしますと、この『一紙小消息』の「罪人なお生まる、況や善人をや」というお詞は、善人の方が往生しやすいとする点で、仏教の本来の精神にむしろよく合致していると申せましょう。仏教の教えからすると、本当は私たちは善人であるべきなのだけれども、それができない凡夫、その凡夫を救おうとして阿弥陀仏は本願を建てられたわけです。まさに『念仏往生義』に「たとえば父母の慈悲は善き子をも悪しき子をもはぐくめども善き子をば悦び、悪しきをば嘆くがごとし。仏は一切衆生を哀れみて善きをも悪しきをも度したまえども、善人を見ては悦び悪人を見ては悲しみたまえるなり」(聖典四・五二七頁)と説かれる通りでしょう。