9.〈第二段〉 弥陀・極楽・念仏に限る理由

 第一段は端的にいえば、いかなる人でも往生の可能性のあることが示されたといえるのですが、ではどんな行・信仰であってもそれが可能かというと、そうではありません。信仰対象は阿弥陀仏に、目指す浄土は阿弥陀仏の西方極楽浄土に、そしてそこへ往生する手段は念仏に限られます。それによってこそ、いかなる者も往生が可能となるのです。
 では、なぜ弥陀・極楽・念仏に限られるのか、そのことが次に示されます。

【原文】

 (一)十方に浄土おおけれど、西方を願うは十悪五逆の衆生の生まるる故なり。
 (二)諸仏のなかに弥陀に帰したてまつるは、三念五念に至るまでみずから来迎し
   たもう故なり。
 (三)諸行の中に念仏を用うるは、かの仏の本願なる故なり。

 まず(一)は西方極楽のみを選ぶ理由。浄土は数あれど、十悪や五逆罪を犯した人でも往生できる浄土は、西方極楽浄土しかないから、ということです。『念仏往生要義抄』でも「善導和尚釈していわく、一切の仏土皆厳浄なれども、凡夫の乱想らんぞう恐らくは生じ難し(16)、といえり。この文のこころは、一切の仏土はたえなれども、乱想の凡夫はうまるる事なしと釈したまうなり」(聖典四・三二五頁)と述べられていて、極楽浄土以外には凡夫は往生できないことが示されています。
 次の(二)は阿弥陀仏のみを選ぶ理由。諸仏の中でも、わずかな念仏だけで自ら来迎してくださる仏は阿弥陀仏以外にないから、ということです。そのことは『念仏往生要義抄』においても、「阿弥陀仏は、罪悪深重の衆生の、三世の諸仏も十方の如来も捨てさせたまいたる我らを迎えんと誓いたまいける」(聖典四・三二三頁)というように、端的に述べられています。
 (三)は色々な行がある中、念仏を選ぶのは、それのみが阿弥陀仏の本願に誓われた行だからということです。阿弥陀仏の他力を得て、阿弥陀仏の浄土に往生しようとしているのですから、阿弥陀仏の御心に適う必要がありますが、阿弥陀仏は第十八願において念仏だけを説き勧めておられるわけですから、私たちはその本願に誓われた念仏のみをすべきということになります。もし念仏以外の行をすれば、阿弥陀仏の御心に反することになり、かえって往生が難しくなってしまいます。
 このように、法然上人は少なくとも基本的には、弥陀一仏・極楽一国土・念仏一行をお勧めになっているのは間違いありません。ところが、現代においては浄土宗の檀信徒でも、他の仏・菩を信仰したり、他の行を実践する方もおられるのが現状です。観音信仰、弘法大師の四国八十八箇所巡礼、そして時には参禅など、雑修的傾向が見られることも少なくありません。このような雑修を実践されている檀信徒に対し、それはそれで貴いことと認めつつも、何とかして弥陀一仏・念仏一行の専修に人々を導くことは浄土宗教師の責務といえましょう。例えば、法然上人二十五霊場巡礼を勧めたり、団体参拝を実施したり、また念仏会などを開催したりして、少しでも阿弥陀仏信仰や念仏行へ導く努力が必要ではないかと思われます。ちょうど、法然上人が雑修の傾向にあった熊谷入道のあり方を貴いこととして一旦は認めつつも、最終的には専修に導こうとされたように。五重相伝の開催なども専修へ導く大きな力となることでしょう。