8.〈第一段〉 行の多少と時機
さて、以下では段落ごとに内容を見ていきましょう。原文を再度あげつつ、説明してまいります。
【原文】
末代の衆生を往生極楽の機にあててみるに、
(一)行すくなしとても疑うべからず、一念十念に足りぬべし。
(二)罪人なりとても疑うべからず、罪根ふかきをもきらはじとのたまえり。
(三)時くだれりとても疑うべからず、法滅以後の衆生なおもて往生すべし、況や近来をや。
(四)我が身わろしとても疑うべからず、自身はこれ煩悩具足せる凡夫なりとのたまえり。
まず、末法の時代において往生できる機根(=性質・能力)に関し、四つの観点から往生の可能性が示されます。すなわち、たとえ、(一)行が少なくても、(二)罪人であっても、(三)釈尊の時代から遠く隔たっていても、(四)煩悩多き身であっても、必ず往生できると。そうすると、実質的にはどのような機根の人でも往生の可能性があるということになるわけです。これら(一)から(四)に相当する内容はご法語の中に繰り返し述べられていますし、またすでに藤堂恭俊師が指摘されているように、『ある人のもとへ遣わす御消息』(聖典四・五四三頁)や『御消息』(同・五三七頁)ではこの四者のうちの三者以上が説かれています。よって、以上の内容は法然上人が日々、説き示しておられたことといってよいでしょう。
ただし、現代においては第一段で述べられたようなことが問題になることはあまりないように思います。というのも、行が少ないからとか、罪業や煩悩が多いからとか、末法だからという理由で、往生できるかどうか悩むというような人は、多くはないと思われるからです。むしろ、それ以前の問題、つまり極楽往生の前提となる阿弥陀仏や極楽そのものが本当に存在するのかといったことの方が、より大きな関心事ではないでしょうか。それに対し、法然上人の時代の人々にとっては(一)から(四)で示されたようなことが大問題でした。だからこそ、まず冒頭で(一)から(四)のような人でも、間違いなく往生できるということを示されたものと考えられます。(12)
ところで、(一)から(四)のうち、(三)と(四)は少し説明を加えておく必要があるかと思います。まず(三)は『選択集』第六章にも引用・言及される『無量寿経』
一方(四)の「我が身わろしとて」については二つの問題があります。一つはこの「我が身わろし」と(二)の「罪人」とは、内容的に同じことを述べていることになるのではないかという点です。これについて法洲上人は、(二)の「罪人」とは身業・
(四)に関するもう一つの問題点は「自身はこれ煩悩具足せる凡夫なりとのたまえり」の解釈です。この一文中の「自身」を時々、「阿弥陀仏」のことと解釈されている方がおられます。しかしながらそれはありえません。「煩悩具足」であれば「仏」とはなりえないからです。(14)
ではどう理解すべきかというならば、この文が『往生礼讃』深心釈に現れる「自身はこれ具足煩悩の凡夫、
ただし、これとは別の解釈の可能性もあります。というのも、この『往生礼讃』の文そのものにおける「自身」は「私たち凡夫」を指しているので、そうすると『一紙小消息』の中の「自身」もまた「私たち自身」を意味する可能性がありえるからです。もしこの解釈に基づくならば、(四)の「自身はこれ煩悩具足せる凡夫なりとのたまえり」という一文は、「〝私たちは煩悩具足せる凡夫である〔が、その凡夫でも往生できる〕〟と、〔善導大師が〕仰っておられる」というように解釈できるでしょう。(15)
ただし、いずれの解釈を採るにせよ、「我が身わろし」すなわち「煩悩具足せる凡夫」でも往生できるということを説いているのには違いがないので、そこに大きな内容的相違はないのですが。