6.『一紙小消息』の原文と現代語訳

 以上、『一紙小消息』の文献的な事柄について解説しましたので、今度はその内容について紹介いたします。まず最初に原文とその訳を挙げておきましょう。原文は浄土宗発行『浄土宗信徒日常勤行式』所載版に、ほんのわずかながら私独自の変更を加えたのものを使用します。
 また、段落分けは、江戸期の法洲『小消息講説』に示された科段分け(10)をふまえて八段に段落分けされた藤堂恭俊師の説(11)を承けつつも、私なりに少し変更を加えて七段とします。

【原文】   【現代語訳】
第一段 末代の衆生を往生極楽の機にあててみるに、 末法の時代の人々を、極楽往生できる性質・能力に当てはめて〔往生の可否を考えて〕みた場合、
  (一)行すくなしとても疑うべからず、一念十念に足りぬべし。 (一)〔念仏の〕行が少ないといっても〔往生を〕疑ってはならない。一念・十念で十分である。
  (二)罪人なりとても疑うべからず、罪根ふかきをもきらわじとのたまえり。 (二)〔自分が〕罪人であっても〔往生を〕疑ってはならない。〔阿弥陀仏は〕罪深き者も嫌わないと仰っている。
  (三)時くだれりとても疑うべからず、法滅以後の衆生なおもて往生すべし、況や近来をや。 (三)時代が下っているからといって(=釈尊の時代を遠く離れた末法という時代だからといって)〔往生を〕疑ってはならない。〔末法一万年の後の〕法滅(=仏教の教えが滅すること)以降の人々でも往生できる。まして〔そこまで時代が下っていない〕現在〔の人々〕は言うまでもない。
  (四)我が身わろしとても疑うべからず、自身はこれ煩悩具足せる凡夫なりとのたまえり。 (四)自分は罪業多き身だからといって〔往生を〕疑ってはならない。〔善導大師でさえ〕「自身は煩悩を身にまとった凡夫である」と述べておられる。
     
第二段 (一)十方に浄土おおけれど、西方を願うは十悪五逆の衆生の生まるる故なり。 (一)十方世界に浄土はたくさんあるが、〔その中でことさらに〕西方〔の極楽浄土への往生〕を願うのは、十悪や五逆罪を犯した人々でも往生できるからである。
  (二)諸仏のなかに弥陀に帰したてまつるは、三念五念に至るまでみずから来迎したもう故なり。 (二)諸仏の中で〔特に〕阿弥陀仏に帰依したてまつるのは、三回・五回〔といった少し〕の念仏でも自ら来迎していただけるからである。
  (三)諸行の中に念仏を用うるは、かの仏の本願なる故なり。 (三)色々な行がある中で、〔特に〕念仏を〔往生行として〕用いるのは、〔念仏が〕かの仏(=阿弥陀仏)の本願〔に誓われた行〕だからである。
     
第三段 いま弥陀の本願に乗じて往生しなんに、願として成ぜずと云う事あるべからず。本願に乗ずる事は信心のふかきによるべし。 〔さて〕今〔その〕阿弥陀仏の本願に乗じて往生しようとする場合、〔本願に乗じさえすれば、その人の往生の〕願いが成就しないというようなことはありえない。〔ただし、〕本願に乗ずる〔ことができるか否か〕ということは、〔その人の〕信心の深さにかかっている。
     
第四段 うけがたき人身をうけて、あいがたき本願にあいて、おこしがたき道心をおこして、はなれがたき輪廻の里をはなれて、生まれがたき浄土に往生せん事、よろこびの中の悦なり。 なかなか得がたい〔にもかかわらず、幸いにも〕人間としての身を得ることができ、〔また人間として生まれても〕巡り逢いがたいものである本願〔の教え〕に巡り逢い、〔また本願に巡り逢っても〕なかなかおこすことができない道心(=仏道を求める心)を発して、〔ついに〕離れがたい輪廻の里(=娑婆世界)を離れ、生まれがたい〔極楽〕浄土に往生できることは、喜びの中の喜びといえる。
     
第五段 (一)罪は十悪五逆の者も生まると信じて、少罪をも犯さじと思うべし。罪人なお生まる、いわんや善人をや。 (一)罪に関しては、十悪や五逆罪の〔罪を犯した〕者でも往生できると信じつつ、〔でも実際には〕どんな小さな罪も犯すまいと思うべきである。罪人でも往生できる。まして善人は言うまでもない。
  (二)行は一念十念なおむなしからずと信じて、無間むけんに修すべし。一念なお生まる、況や多念をや。 (二)行に関しては、一回の念仏や十回の念仏でも〔往生のために〕効力があると信じつつ、〔でも実際には〕間を置かず〔念仏行を〕修し続けるべきである。一回の念仏でも往生できる。まして多くの念仏〔で往生できること〕は言うまでもない。
     
第六段 (一)阿弥陀仏は「不取正覚しょうがく」のことばを成就して、現に彼の国にましませば、定んで命終の時は来迎したまわん。 (一)阿弥陀仏は〔四十八願のすべての願において、この誓いが成就されないなら決して「正覚を取らじ」、すなわち「仏にはならない」と述べられていたのであるが、阿弥陀仏はその〕「正覚を取らじ」という言葉〔によって誓われた四十八願すべて〕を成就されて、いま現にかの〔極楽〕国に〔仏として〕ましますので、〔誓願はすべて成就されているということになるから、念仏するならば〕命を終える時には、きっと〔阿弥陀仏は私たちを〕お迎えに来られることであろう。
  (二)釈尊は「善哉よきかな、我が教えに随いて生死を離る」と知見したまい、 (二)〔また〕釈尊は〔念仏する者に対して〕、「何と素晴らしいことであろうか、〔阿弥陀仏の念仏往生の誓いを信じて、その通り念仏せよという〕私(=釈)の教えに従って、生死輪廻の世界を離れようとしているとは」と見なしておられ、
  (三)六方の諸仏は「悦ばしき哉、我が証誠を信じて不退の浄土に生まる」と悦びたもうらんと。 (三)〔さらに〕六方の諸仏は〔念仏する者に対して〕、「何と喜ばしいことであろうか、私たち(=諸仏)の〔念仏往生に対する〕証明を信じて、〔一度往生すれば、もはや決して迷いの世界に〕戻ることのない〔極楽〕浄土に往生しようとしているとは」と喜んでおられることであろう。
     
第七段 天に仰ぎ地に臥して悦ぶべし、このたび弥陀の本願にあう事を。行住坐臥にも報ずべし、かの仏の恩徳を。頼みても頼むべきは「乃至十念」の詞、信じても猶信ずべきは「必得往生」の文なり。 天を仰ぎ地に伏す程に悦ぶべきである、〔幸いにも〕このたび、阿弥陀仏の本願に巡り逢えたことを。動いていても止まっていても座っていても臥していても感謝すべきである、かの〔阿弥陀〕仏の恩徳を。
頼みとする中にもなお頼みとすべきは「少なくとも十回の念仏〔で必ず往生できる〕」という〔第十八願の〕詞であり、信じる中にもなお信じるべきは「〔念仏すれば〕必ず往生できる」という〔善導『往生礼讃』の〕一文である。